TRANSLATION

聖書の知識を身につけておく意義

宮崎 伸治

出版翻訳家による和訳レッスン

前回、自宅に聖書を所有しておくことは英和翻訳家として必須といっていいというお話をしましたが、時間的余裕がある人は、一歩進んで聖書の知識を身につけることをお勧めします。なぜならそうすることでより良い翻訳ができる可能性が高まるからです。

契約書とかマニュアルなどを訳すことの多い産業翻訳では聖書の知識を要する場面はほとんどないでしょうが、出版翻訳の場合はクリスチャンが書いた本を訳す場合はもちろんのこと、たとえノンクリスチャンが書いた本を訳す場合でも、聖書の知識はある程度あったほうが望ましいように思います。

なぜかといえば、それだけ英語圏ではキリスト教が国民の生活に浸透しているからです。アメリカでは国民の約4分の3、イギリスやオーストラリアでは約半数がクリスチャンだといわれています。この割合は時の流れとともに多少は変動しますが、明らかに言えることは日本とはまったく事情が違うということです。日本はせいぜい1%と言われているのですから、桁が違います。

アメリカ、イギリス、オーストラリアなどのようにクリスチャンが半数以上を占める国だと、日常生活のあらゆるところで聖書の知識があることが前提でコミュニケーションが行なわれるのは自然なことです。当然、聖書の知識があることが前提で書かれている文章も多々あります。国民の半数以上がクリスチャンという国で生まれ育った原著者が書いた文章であれば、たとえそれがキリスト教関連のものでなくても聖書の影響を受けている可能性は大なのです。

それでは、聖書の知識が役立つと思える箇所を挙げてみましょう。

とあるカクテル・パーティでの出来事です。ある男性が女性に近づいて行って、彼女のお尻を触りました。そのとき彼女はその男性にこう言いました。

“My mother always told me to turn the other cheek.”

さて、では彼女のこのセリフをどう訳したらいいでしょうか。

訳を考える前に、彼女が言わんとしたことが理解できるかどうか、じっくり考えてみてください。というのも英語を日本語に変換することだけなら誰でもできることですが、単に英語を日本語に変換しただけでは、彼女が言わんとしたことが読者には伝わらない可能性があるからです。ためしに直訳してみましょう。

「私のお母さんは、いつも私に、もう一つの頬を向けなさいって言うの」

これで彼女が言わんとしたことが一般的な読者に伝わるでしょうか。日本人の99%はノンクリスチャンであることを考えれば、ここはやはり聖書の知識がない人にも伝わる訳し方をしたほうが望ましいでしょう。

じつは原著者はこの直後に、彼女の対応は“大人の対応”だったと褒めています。聖書の知識がなければ、なぜこの彼女の対応が“大人の対応”なのかが理解できないことでしょう。じつは、聖書には次のような有名な聖句があるのです。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。(マタイによる福音書 5:38-5:39)

彼女の“My mother always told me to turn the other cheek.”というセリフの最後のturn the other cheekは、聖書の「ほかの頬をも向けてやりなさい」から来ているのです。彼女がこう言ったのも、彼女のお尻を触った男性もこの聖句を知っているという前提があってのことです。

お尻を触られて、カッとなって「なんて嫌らしい人!」と怒鳴りつけたり、その場から逃げ出したりといったこともできたはずです。しかし彼女は冷静にこう切り返すことで、「私は聖書を読んでいるのよ、あなたが思っているような軽い女ではないのよ。私にはお母さんがついているから気をつけなさい」ということ、さらには「私には嫌なことがあっても怒ったり騒いだりせず、ユーモアをもって返すことができるの」ということを彼に伝えようとしていたのです。その対応がまさに“大人の対応”だったというわけです。

では、こうした聖書の背景知識があったとしたら、訳にどう反映させればいいでしょうか。

一つの方法は、「頬」が「お尻」の比喩として使っていることが分るようにすることです。そうするには「頬」の直後に( )付きで(お尻)とつけるといいでしょう。さっそく訳を修正してみましょう。

「こういうときは、もう一方の頬(お尻)を向けろって、いつも母から言われているのよ」

もう一つの方法として、訳はそのままにして、欄外に次のような註をつけることが考えられます。

「聖書には、『悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい』という聖句があり、彼女はこの比喩を使うことによって、『私は聖書を知っているのよ、あなたが考えているような軽い女ではないのよ』というメッセージを彼に伝えている」

ここでは2つの解決策を考えてみました。どちらがより良い解決策かは好みによるでしょう。しかし一つ言えることは、聖書の知識がない人が読んでも理解しやすいように訳さなければならないということです。こうした工夫ができるには翻訳家自身がこの聖句をすぐに思い出せる状態になっていなければならないわけで、そのためには聖書の知識を身につけておくことが望まれるのです。

今回は、聖書の知識が求められる実例を挙げて、聖書の知識を身につける意義について述べてみました。

ひろゆき氏等多くのコメンテーターに対して翻訳業界の現状を語る番組に出演した際の動画が無料で視聴できる。
https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p3575(ABEMA TV)。

また「大竹まことのゴールデンラジオ」に出演したときのようすが、次のリンク先のページの「再生」ボタンを押すことで無料で聴くことができる。
http://www.joqr.co.jp/blog/main/2021/03/110.html

Written by

記事を書いた人

宮崎 伸治

大学職員、英会話講師、産業翻訳家を経て、文筆家・出版翻訳家に。産業翻訳家としてはマニュアル、レポート、契約書、パンフレット、新聞記事、ビジネスレター、プレゼン資料等の和訳・英訳に携わる。
出版翻訳家としてはビジネス書、自己啓発書、伝記、心理学書、詩集等の和訳に携わる。
著訳書は60冊にのぼる。著書としての代表作に『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(三五館シンシャ)が、訳書としての代表作に『7つの習慣 最優先事項』(キングベアー出版)がある。
青山学院大学国際政治経済学部卒業、英シェフィールド大学大学院言語学研究科修士課程修了、金沢工業大学大学院工学研究科修士課程修了、慶應義塾大学文学部卒業、英ロンドン大学哲学部卒業および神学部サーティフィケート課程修了、日本大学法学部および商学部卒業。

END