こなれた訳文にする工夫(9)
出版社の編集者と翻訳出版のお打ち合わせをする際、決まって言われるのが「日本語として読みやすい訳文にしあげてください」です。一方、「原文に忠実に訳してください」と言われた記憶はありません。どちらも大切なことなのに、です。
日本語として読みやすくすべきだということは十分承知してはいるのですが、読みやすくするためにどの程度まで原文から離れていいものか…と頭を悩ますのが常です。というのも、原文に忠実に訳そうとすればするほど日本語としては読みにくくなる場合があるからです。
私の場合は生真面目な性格が災いしてか「日本語として読みやすればいいからといっても原文からあまり離れるのはまずいだろう」いう自制心が働いてしまい、ついつい原文の言葉に引きずられた訳になってしまうことがあります。
実際、原文からかけ離れた訳にするのはかなりの勇気がいることです。でも、それでは読みにくいままの場合が多く、結局、編集者に訂正を求められることになります。
そこで今回は、いったん翻訳をし終えて編集部に提出した訳文が編集者から「読みにくい」といって訂正を求められたケースを見ていきましょう。恥をさらすようですが、これも読者のためになれば…という気持ちがあるからこそすることです。
前にも取り上げたことがありますが、私が若かりし頃に訳した既刊訳書『人生の処方箋』から実例を挙げて考えてみます。原書はポール・キーナンという神父さんが書いたGood News for Bad Daysです。
ところで、W・A・グロータースは『誤訳』の中で次のように述べています。
「フランス語でも日本語でも、形としての言語記号をいったん忘れさえすれば、思考の深みに達することができる。しかし、母語の場合と外国語の場合とは当然違っていて、母語の場合はただちに、しかも、まったく自動的に思考の深みに到達する。外国語を十分に消化して自動的に使えるようにならない場合は、外国語の言語記号の影響がなんらかの形で思考のうちに残るものである」
彼のいう「外国語の言語記号の影響がなんらかの形で思考のうちに残る」という現象を詳しく見ていきましょう。
最初の例です。あなたならどう訳しますか。
Have we accumulated more and more dead weight in our souls?
英文にsoulという単語が使われていたら、どうしてもsoulを訳さなければならないと思いがちですが、これは「魂」「霊魂」「霊」という決まり訳がある言葉ですので、それをそのまま使うと日本語として不自然な感じを受けることがあります。さらにdead weightという少し見慣れない言葉があるとつい英和辞典に頼りたくなります。引いてみると「重石」という訳が載っています。原文に引きづれられてしまうと、「魂」とか「重石」がそのまま残ってしまうので、次のような訳文になりがちです。
元の訳=自分の魂にもっと重い重石を乗せるだろうか。
この訳で出していたところ、編集者から「読みにくい」といわれ、思い切って意訳したのが次の訳です。元の英文と自分が作った訳文を照らし合わせながらならがニラメッコして推敲しても、元の英文をどうしても引きずることになりますので、もはや元の英文を見るのを止め、原著者が言いたいことは何かに神経を集中し、それを自分の言葉で表現しました。具体的には「魂」という言葉を外し、「重石」を「重荷」に変えました。
修正訳=何かが自分にとって重荷になっているのではないか。
これで日本語としては読みやすくなりました。
次の例を見てみましょう。
Blaming may be okay in the short run. It can give us a little breathing space while we try to figure out what really happened.
元の訳=責任転嫁は短期的には効果がある。本当に何が起きたのかを理解しようとしている間、ほっと一息つけるからだ。
It can give us a little breathing space の箇所を「ほっと一息つける」とうまく訳したつもりでしたが、訳文だけしか読まない編集者にとっては、読みにくく感じたのでしょう。「本当に何が起きたのかを理解しようとしている間、ほっと一息つけるからだ」の箇所に波線を引いた上で修正を求められました。そこで、原著者がここで何が言いたいのかだけに絞って以下のように変更しました。
修正訳=責任転嫁をすれば一時的に気が楽になる。
これで一気に読みやすくなり、ゴーサインが出ました。
もう一つ例を見てみましょう。
My suffering opened a door that led to, yes, an appreciation of the moral law, but thankfully also to compassion and understanding and wonder at the miracle of soulful love.
元の訳=私は苦しみによって道徳の価値が分かるようになっただけでなく、ありがたいことに霊的な愛の奇跡も分かるようになったのである。
編集者は「霊的な愛」の「霊的な」の箇所をカットしていましたが、日本語の「愛」という言葉そのものに「感情がこもっている」とも考えられるので不要といえば不要ですね。また、miracle を「奇跡」と訳していたのですが、ここも編集者によって「愛というものの素晴らしさ」と書き換えられていました。たしかに「愛の奇跡」では唐突な感じがします。やはり読者あっての訳文ですので、読者がわかりにくい訳文では、修正を求められてしまいます。そこで以下のように修正しました。
修正訳=私は苦しみによって道徳の価値が分かるようになっただけでなく、ありがたいことに愛というものの素晴らしさも分かるようになったのである。
これでゴーサインがでました。
フランスの哲学者ガブリエル・マルセルは「たとえ多少の誤りがあるにせよ、正確だが耐えがたいフランス語で書かれたものよりは、正しいフランス語のものの方がよい」と述べています。どこまでの「誤り」を許容するかという問題もありますが、科学技術文書ではなく、思想や感情を表した作品の場合は、大胆な意訳をしても読みやすい日本語で表現した方がいい場合もあると考えてもいいでしょう。今回は自分の恥をさらしましたが、参考になれば幸いです。
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