TRANSLATION

こなれた訳文にする工夫(6)

宮崎 伸治

出版翻訳家による和訳レッスン

こなれた訳文にする上で翻訳者がぶつかるジレンマをどう克服すればいいかについて、今回は私の既刊訳書から実例を挙げて考えてみます。取り上げるのは私が若かりし頃翻訳出版した『人生の処方箋』で、原書はポール・キーナンという神父さんが書いたGood News for Bad Daysです。

当時の私はすでに単独訳の翻訳書を10冊以上出版していた“独り立ちした翻訳家”でした。しかし、いま“編集部に最初に出した訳文”を見直してみると、かなりぎこちない訳文になっているのに気づかされます。独り立ちした翻訳家としては、ほぼ修正する必要の無い翻訳文を編集部に出すのが理想的といえますが、この本に関しては、恥ずかしいほど編集者に再検討を求められています。ほかの本でそこまで再検討を求められたことはありませんでしたが、英語として読めばスッと理解できても、日本語にするとぎこちなくなる抽象的な概念をたくさん扱った本だったのが原因だろうと思います。そのような本は要注意です。自分では良く訳したつもりでも、読者は良い訳だと思ってくれないからです。

それではさっそく例を見てみましょう。

この本は、ある青年社長の嘆きの言葉から始まっています。特に2つめの文のlifeをどう訳すかに気をつけて訳してみましょう。

I have all this success. What I don’t have is a life!

まず直訳してみましょう。

直訳:「私はこの成功をすべてもっている。私がもっていないのは人生である」

この訳だと英文和訳としてはかろうじて合格点がもらえるかもしれませんが、これでは翻訳とは言いがたいです。というのも、とても不自然な日本語になっているからです。これほど不自然な日本語だと読者に読んでもらえなくなる可能性が高いです。「もっていないのは人生」というのはさすがに日本語としておかしいですよね。

ちなみに私が編集部に最初に出したのが次の訳文です。

宮崎の修正前の訳:「私は何もかもがうまくいっている。だけど生きた感じがしないんだ」

自分としては知恵をしぼって訳したつもりでしたが、編集部から「だけど生きた感じがしないんだ」の箇所の修正を求められました。たしかに「生きた感じがしない」というのは言い過ぎかもしれないと思い直し、以下のように修正しました。

宮崎の修正後の訳:「私は何もかもがうまくいっている。だけど生きているという実感がないんだ」

これでゴーサインが出ました。この例の中のI don’t have is a life! のように英語では簡単で分かりやすい文であっても、直訳すると日本語として不自然になるという場合がありますが、それをどれだけ自然な日本語にできるかが翻訳家の腕の見せ所といえます。

次の例を見てみましょう。

How do we get to the place called soul when we fell trapped in our lives?

宮崎の修正前の訳:「人生に行き詰まったとき、どうすれば魂にたどりつけるだろうか」

ここではsoulをどう訳すかが問題になります。ご存じのとおり、soulは「魂」と訳されることの多い単語です。他に良い訳語がないかを熟慮する前についつい「魂」と訳してしまったのですが、日本語では一般の書籍で「魂」という言葉を使うことはそれほど多くないのではないのでしょう。編集者から「どうすれば魂にたどりつけるだろうか」の箇所の修正を求められました。そこで以下のように修正しました。

宮崎の修正後の訳:「人生に行き詰まったとき、どうすれば本当の自分を取り戻せるだろうか」

もう1つ例を見てみましょう。ここでもsoul が出てきています。「魂」以外のわかりやすい訳語を使いたくなりますが、ここでは「魂」と訳したほうがむしろ良さそうです。しかし、2文目のsoulful guidanceがくせ者です。どう訳せばいいか考えてみてください。

It is sad that more of us do not realize that the soul has a voice that calls and guides us throughout our lives.  The good news is that more people are turning within for soulful guidance.

宮崎の修正前の訳:「魂は常に私たちに語りかけ、導いてくれている。そんな魂に気づかない人が多くなっていることは悲しいことである。ただ、霊的な指針を心の中に求めている人が多くなっていることは喜ばしいことである」

私は最初、soulful guidanceを「霊的な指針」と訳したのですが、編集者から修正を求められました。たしかに日本語として「霊的な指針」は仰々しいですね。そこで頭をひねり、修正したのが次の訳文です。

宮崎の修正後の訳:「魂は常に私たちに語りかけ、導いてくれている。そんな魂の声に気づかない人が多くなっていることは悲しいことである。ただ、多くの人が自らの内なる声に耳を傾けようとしはじていることは喜ばしいことである」

「英語として読めばスッと理解できても、日本語にするとぎこちなくなる抽象的な概念をたくさん扱った本」を訳す場合は、いったん訳した後しばらく時間を空けてから、(原著と対照してではなく)訳文だけを「日本語として自然な表現になっているか」という視点から再検討してみるといいでしょう。

今回は、お恥ずかしながらも、若かりし頃の私の訳書から実例をあげて検討してみました。

ひろゆき氏等多くのコメンテーターに対して翻訳業界の現状を語る番組に出演した際の動画が無料で視聴できる。

https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p3575(ABEMA TV)。

また「大竹まことのゴールデンラジオ」に出演したときのようすが、次のリンク先のページの「再生」ボタンを押すことで無料で聴くことができる。

http://www.joqr.co.jp/blog/main/2021/03/110.html

 

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記事を書いた人

宮崎 伸治

大学職員、英会話講師、産業翻訳家を経て、文筆家・出版翻訳家に。産業翻訳家としてはマニュアル、レポート、契約書、パンフレット、新聞記事、ビジネスレター、プレゼン資料等の和訳・英訳に携わる。
出版翻訳家としてはビジネス書、自己啓発書、伝記、心理学書、詩集等の和訳に携わる。
著訳書は60冊にのぼる。著書としての代表作に『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(三五館シンシャ)が、訳書としての代表作に『7つの習慣 最優先事項』(キングベアー出版)がある。
青山学院大学国際政治経済学部卒業、英シェフィールド大学大学院言語学研究科修士課程修了、金沢工業大学大学院工学研究科修士課程修了、慶應義塾大学文学部卒業、英ロンドン大学哲学部卒業および神学部サーティフィケート課程修了、日本大学法学部および商学部卒業。

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