こなれた訳文にする工夫(5)
前回に引き続き、こなれた訳文にする上で翻訳者がぶつかるジレンマをどう克服すればいいかについて、既刊訳書から実例を挙げて考えてみます。
例題8は心理学書からの抜粋です。まず英文を見てみましょう。
例題8
All persons can become Transactional Analysts. Treatment simply speeds the process. Treatment with Transactional Analysis is essentially a learning experience through which an individual discovers how to sort out the data that goes into his decisions. There is no magic applied by an omnipotent expert.
翻訳する際に特に気をつけたい点は以下の3点です。
- 最初の文の中のTransactional Analystsをどう訳せばいいでしょうか。主語がAll persons であることを念頭に考えてみましょう。
- 2文目の中のTreatment simply speeds the process.は無生物であるtreatment(治療)が主語になっていますが、これを主語として訳していいでしょうか。日本語として読みやすくするためにどのような工夫をしたらいいでしょうか。
- an omnipotent expertをどう訳せばいいでしょうか。magicという言葉が使われていることを念頭に考えてみましょう。
ある翻訳者の例を見てみましょう。
- ある翻訳者の訳
対話分析はけっしてむずかしいものではない。治療は処理をスピードアップするだけのものである。対話分析による治療は本質的には学習体験である。それを通じて決定に必要なデータを分類する方法を発見させようとするものである。ただそれだけのものであるから熟練した専門家を必要とはしない。
さて、では上記翻訳者の訳文を原文と照らし合わせながら検討していきましょう。
Transactional Analystsを直訳すれば「交流分析家」となりますが、日本語として「交流分析家」という言葉が一般の人に定着しているようには思えませんし、「家」を付けると日本語としては、いかにも専門家のようなニュアンスが出てきますね。例えば、「翻訳家」と「翻訳者」とを比較しても「翻訳家」のほうが専門家というイメージが強くなります。しかしここでは一般人を指していますので、その点を考慮して訳しましょう。
英語ではHe is a good cook.というような言い方をすることがありますが、これは彼が“職業料理人”であるとはかぎらず、“一般人”である彼を「料理がうまい」といっているだけの可能性もあります。もしそうなら「彼は良い料理人です」と訳すより「彼は料理がうまい」と訳したほうが読みやすいですね。上記英文もそれと同じです。「誰もが交流分析家になれます」と訳すより、「誰もが交流分析を行なうことができます」としたほうが日本語して読みやすいでしょう。
次に、上記翻訳者は「All persons can become Transactional Analysts.」を「対話分析はけっしてむずかしいものではない」と訳していますが、原著者は交流分析が難しいか易しいかには言及していません。「誰もが行なうことができる」といっても、それが必ずしも「むずかしいものではない」と断定できるわけではありませんので、必要もないのに勝手な憶測で自分の解釈を入れないほうがいいでしょう。
では、Treatment simply speeds the process.はどう訳せばいいでしょうか。上記翻訳者は「治療は処理をスピードアップするだけのものである」と訳しています。英語ではこのように無生物を主語にするケースがしばしば見られますが、日本語では無生物を主語にすることはあまりありませんから、読みにくい感じがします。「治療が○○する」という箇所は、「治療を受ければ○○になる」と言ったほうが日本語としては自然ですね。
次にan omnipotent expertをどう訳すか考えてみましょう。上記翻訳者は「熟練した専門家」と訳しています。しかしmagicという言葉が使われていることにも注目してください。magicには「魔法」とか「魔術」とか「奇術」といった意味のある言葉です。はたして「熟練した専門家」がmagicを行なうものでしょうか。行ないそうにありませんね。また、「熟練した専門家を必要としない」というのは本当のことでしょうか。私は、むしろ熟練した専門家に診てもらいたいものです。ところで「熟練した」という日本語を英訳すればskilledとなるのに、なぜomnipotentという単語が使われているのでしょうか。こうしたことを総合的に考え合わせれば、omnipotentはmagicを使うような“全知全能の専門家”といったニュアンスで使われていることが分かるでしょう。
以上の点を考慮して、私は以下のように訳してみました。
- 宮崎訳
交流分析は誰もが行なえるものである。治療を受ければすぐに速くできるようになる。交流分析による治療は、本質的に、決断する際に必要となるデータをどう整理すればいいかを体験を通して学習することである。なにも全知全能の専門家が魔法を使うものではない。
今回は、原文が意図するニュアンスをより正確に日本語にするためにどのような工夫ができるかを考えてみました。日本語としてあまり使わない言葉を読みやすい日本語に言い換えたり、訳語だけを読み直したときにそれが現実とマッチしているか吟味したりしたほうがいい例を挙げて考えてみました。
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