こなれた訳文にする工夫
今回は、こなれた訳文にする上で翻訳者がぶつかるジレンマをどう克服すればいいかについて、既刊訳書から実例を挙げて考えてみます。
翻訳の仕事を長年してきて感じていることは、こなれた訳文にする上で目指すべき2つの目標は、原文に忠実な(つまり正確な)訳文にすることと、日本語として読みやすい訳文にすることだということです。
ところが、原文に忠実に訳せば日本語として不自然になりがちですし、日本語として自然に訳せば原文からかけ離れてしまうし…というジレンマにぶつかることが少なくありません。
原文に忠実であり、かつ日本語として自然な訳文にしあげることは、野球のピッチャーに喩えていえば、完全試合を達成するくらい難しいように思います。しかし難しいからといって最初から手を抜いていては良い訳文にはなりません。少しでも完全に近づけるべく、最大限の努力をしましょう。
そこで今回は、このジレンマをどう乗り越えればいいかを既刊訳書から実例を挙げて考えていきましょう。
例題1
34歳の女性が初めて心理カウンセラーのところにカウンセリングに行った場面です。どう訳せばいいかを考えてみてください。
A thirty-four-year-old woman came to me for help with a problem of sleepless, constant worry over ‘what I am doing to my children’.
ここで工夫が必要となるのは‘what I am doing to my children’です。あなたはここをどう訳しますか。
まずは、ある翻訳家の訳を見てみましょう。
- ある翻訳家の訳
34歳の女性が不眠症と「私が私の子供にやろうとすること」に対する絶え間ない心配で助けを求めて来た。
原文には‘what I am doing to my children’という表現がありますので、これを正確に訳せばたしかに「私が私の子供にやろうとすること」とか「私が私の子供にやっていること」などと訳すことは可能でしょう。
ただ、読者は原文がどうなっているかを知りません。訳文だけを読むと、カッコ付きで「私が私の子供にやろうとすること」と書かれてあっても、一瞬、何のことだろうかと思ってしまうでしょう。日本語では普通このような書き方をしないからです。
では、日本語として読みやすくするにはどのような工夫が考えられるでしょうか。英語ではこの例のようにカッコ付きで書く癖のある人がいますが、カッコ付きの箇所を必ずしもカッコ付きで訳さなければならないというルールがあるわけではありません。
日本語ではカッコ付きで書くのは一般的でもないので、カッコを外してみましょう。そのために、まず‘what I am doing to my children’が何を意味しているか考えてみましょう。そのまま訳せば、「私が私の子供にやろうとすること」となりますが、つまるところ彼女は何を悩んでいたのでしょうか。該当する箇所の英文からは、彼女が子供との接し方に悩んでいたのだと推察できます。もしあなたが自分の子供との接し方に悩んでいるとき、あなたがそのことを日本語で書くとしたらどう書くかをイメージし、それをそのまま日本語にしてみましょう。
私なりに修正したものが次の訳文です。
- 宮崎訳
ある34歳の女性が不眠症と子供たちとの接し方に悩まされた挙げ句、私のところに相談に来た。
「助けを求めに来た」の箇所はそのままでもいいのですが、カウンセラーのところに「助けを求めに来た」わけですから、その目的は「相談」と解釈して意訳してみました。また、「子供」といっても単数なのか複数なのかが分かりません。原文に忠実に訳そうと思えば、childrenと複数型になっていますので「子供たち」にしてもいいでしょう。
次の例を見てみましょう。場面は実例1の続きで、カウンセラーと34歳のクライアントの会話です。
実例2
She suddenly began to weep and said, “You make me feel like I’m three years old.” Her voice and manner were that of a small child. I asked her, “What happened to make you feel like a child?” “I don’t know,” she responded.
- ある翻訳家の訳
彼女はふいに泣き出して「あなたは私をまるで3歳の子供のようにしてしまう」と言ったものだった。彼女の声や態度は幼い子供のようになってしまった。「いったいどうして子供のような感じをもつようになったのですか」と尋ねたところ、「わかりません」と答えた。
この翻訳家は、“You make me feel like I’m three years old.”を「あなたは私をまるで3歳の子供のようにしてしまう」と訳していますが、この訳文ではfeelがうまく訳し出されていませんので、読む人は「3歳の子供のようにしてしまう」とは何のことなのかがわかりにくいでしょう。
かといって、「あなたは私をまるで3歳の子供のよう感じさせてしてしまう」としてしまえば、いかにも翻訳調の訳文になってしまいます。この辺を日本語として読みやすくするには、You make me feel like…という表現を「あなたは私に~のように感じさせる」と訳すかわりに、「私はあなたといると~のように感じる」と自分を主語して書き直すといいでしょう。
また、この翻訳家は、“What happened to make you feel like a child?”の箇所を「いったいどうして子供のような感じをもつようになったのですか」と訳していますが、相談者が子供のように感じ始めたのはカウンセラーと話し始めた後のことにしかすぎません。「感じをもつようになった」といえば、その状態がある一定の期間続いているような感じを受けます。しかし、時間の経過はほんの一瞬のことですから、ここは「なぜ子供になったように感じたのですか」と修正してみましょう。
私なりに修正したものが次の訳文です。
- 宮崎訳
彼女は急に泣き出して、「あなたと話していると、3歳の子供になったように感じるわ」と言った。そう言う彼女の声と態度は幼児そのものであった。私は彼女に次のように訊いてみた。
「なぜ子供になったように感じたのですか」
「分からないわ」
翻訳には唯一絶対の「正解」といえるものはありません。私自身も常にどうすればよりよい訳文になるだろうかと頭を悩ませていますし、私の訳文が他の訳者より優れていると確信しているわけでもありません。言うまでもなく、訳し方は訳者によってそれぞれです。今回のケースでは、どういう工夫ができるか参考にしていただくために実例をあげて考えてみました。
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