訳文を推敲する上でのポイント
今回は、訳文を推敲する上で重要なポイントを考えてみましょう。
外国語の文章を和訳するとき、あなたは原文のすべてを何度か読んで十分に理解した上で翻訳し始めるでしょうか。それとも最初にすべてを読むことをせず、いきなり1文1文(あるいは1段落1段落)翻訳し始めるでしょうか。必ずしもどちらが良いというわけではありませんし、原文の難易度や与えられた翻訳期間にもよるでしょう。
最初にすべてを読むことをせず、原文を読みながら1文1文(あるいは1段落1段落)翻訳し始め、全部を翻訳し終わってから原文と訳文を照らし合わせて推敲する場合、専門用語的な言葉をどう訳すかなど、じっくり考えてから訳すということができないため、とりあえず仮の訳語を決めて訳すことになります。また、原著者が言いたいことをすべて理解して訳すわけではないため、全部を訳し終わってから何度も推敲が必要になってきます。
一方、原文のすべてを何度も読んで十分に理解し、原著者の意図を汲み取り、専門用語的な言葉も吟味してから訳し始めれば、推敲する回数は少なくて済むでしょう。しかし逆に、翻訳を開始するまでに相当の時間を要します。時間的余裕があるときは、こちらのほうが推敲する回数が少なくて済む分、推敲にかかる余分な労力が不要になるでしょう。
いずれの場合も推敲は必要になってきますが、どのような点に気をつければいいかをお話します。
(1)誤字・脱字がないかチェックする
最近のワープロソフトは誤字・脱字を自動的に指摘しれくれますので、ぜひフル活用しましょう。そのようなワープロソフトを使用していない人は自分で誤字・脱字を発見せざるを得ませんが、誤字・脱字が多いと致命傷となるので十分に気をつけましょう。
(2)固有名詞は定訳があるかチェックする
地名、人名、商品名、著書名などの固有名詞に定訳がある場合は、それを使うのが原則です。インターネット普及前はチェックするのも大変でしたが、今や簡単にチェックできますので、必ずチェックしましょう。
じつは私には苦い体験があります。大急ぎで訳していたため、英国の高級車Jaguar を、後で定訳があるかチェックしようと思いながらも、とりあえず「ジャグアー」と訳していたのです。すると編集者から大目玉を食らいました。というのも定訳として「ジャガー」があり、辞書にも載っているくらいですので、自動車に詳しい・詳しくないに関わらず、言い訳はできないからです。
(3)日本語として読みやすくなっているか否かという観点から推敲を何度もする
通常、読者は訳書を読むとき、原書も入手して原書と訳書を比較しながら読むということまではしません。つまり読者にとっては訳文しか読解の手がかりはないため、訳文がすべてなのです。ですから「私は原文に忠実に訳した。だから読みにくくてもしかたないではないか」という言い訳は通用しませんので、日本語として読みやすくしなければなりません。
推敲をするときのポイントは、原文を忘れてしまうほどの時間を空けてから推敲することです。原文が頭の中に残っている間はどうしても原文の言葉に引きずられてしまい、翻訳調の文章になりがちだからです。
また、推敲するとき、自分の訳文と元の原文を照らし合わせてチェックする手もありますが、これも原文の言葉をそのまま引きずらせてしまう原因になりかねません。純粋に日本語として読みやすいか否かをチェックする場合は、訳文だけでそれをチェックするといいでしょう。
例を見てみましょう(ちなみにこれは私が実際に訳した本を自分で推敲した例です)。
(例1)推敲前:人生に行き詰まったとき、どうすれば魂にたどりつけるだろうか。
直訳すると「魂にたどりつけるだろうか」という訳になってしまうのですが、これでは一般読者は分かりづらいでしょう。原文が頭から消えたころに、ここで原著者は何が言いたいのかを再考し、推敲すると次のような訳になりました。
(例1)推敲後:人生に行き詰まったとき、どうすれば本当の自分を取り戻せるだろうか。
ここでのポイントは日本語としてあまり使わない表現は再考するということです。原文で“soul”という言葉が使われているから「魂」と訳していたのですが、これでは一般の読者にはわかりづらくなるため、読みやすく推敲しました。
次の例を見てみましょう。
(例2)推敲前:現状のまま生き続ければ、いずれ皮肉屋になるか、世を拗ねるようになる。
原文にある単語は勝手に省略しないのが原則ですが、原著者によっては似たような言葉を繰り返す癖のある人もいます。文芸翻訳の場合、冗長になると思われ、かつ、削っても原著者が意図することが変わらないようなら冗長な言葉を削るも一つの方法です。ここでは「皮肉屋になる」と「世をすねるようになる」がほぼ同じような意味と考えられるので削ってみましょう。
(例2)推敲後:現状のまま生き続ければ、いずれ世を拗ねるようになる。
(4)日本語として読みにくいところはないかを他人に読んでもらう
知人友人など、訳文を読んでくれる人がいるのであれば、読んでチェックしてもらうのもいいでしょう。本として出版する場合は、当然、編集者の厳しいチェックが入ります。編集者は長年、プロとして本作りに携ってきている人たちですから、読みやすくなっているか否かに非常に敏感になっています。ちなみに、私が編集者にチェックされた例をいくつか挙げてみましょう。
「息子の業績を話す母親たち」→「息子の自慢話をする母親たち」
「彼女は優秀なドイツ人医師で、どういう事情かは知らないが路上生活者になり」→「彼女は優秀者ドイツ人医師だったが、何らかの事情で路上生活者になり」
「船乗りは、風が吹こうが、嵐が来ようが、航海できるようにならなければならない」→「船乗りは、風が吹こうが、嵐が来ようが、航海を続けなければならない」
編集者に提出する段階で、自分なりにベストを尽くして訳したつもりですが、原文が頭の片隅に残っていたため、原文に引きずられた訳になっている箇所が少なからずありました。編集者に推敲の手間をかけないようにすべきですが、手間をかけずに済むほど良質の訳文にしあげるにはそれなりに努力が求められます。チェックしてくれる知人友人を見つけておくのも一つの方法といえるでしょう。
今回は、訳文を推敲する上で重要なポイントをお話ししました。
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