英和辞典を引く手間を省かない
今回は、ある程度実力のある翻訳家が陥りやすい初歩的なミスの一つについて述べてみたいと思います。
「生兵法は大けがのもと」ということわざがあります。意味は「少しばかりの知識や技術は、それに頼ったり自負したりして、かえって大失敗をする」ことですが、ある程度の実力のついた翻訳家がやらかしてしまうのが、自分の語彙力を過信するがあまり英和辞典をひく手間を省くことです。
じつは、語彙力を過信している私自身、以前、ミスをおかしたことがあります。そのときのことを例としてご紹介しましょう。
まずは英文をじっくりと読んでみてください。これは人が「brown(茶色)」にどのようなイメージをもっているかが説明してある文章です。あなたならどう訳しますか。
We think of brown as the color of earth and forests, but also of home and hearth – for it is the color of bread and baskets.
さて、この英文の中で、やや難易度が高めの単語といえば、hearth でしょう。この単語を知らない人であれば、当然、辞書をひくことでしょう。だから誤訳する可能性が逆に低くなるのです。
しかし、「hearth」が「炉辺、暖炉のそば」だと知っている人は、わざわざ辞書を引くという手間を省きたくなるものです。そういう人は次のような訳をすることでしょう。
直訳:私たちは茶色を土や森の色として考えます。しかし、家と暖炉の色としても考えます。なぜなら、それはパンとバスケットの色だからです。
じつは私自身、このような訳で問題はないと思っていました。
しかし、訳文を読み直してみてください。なぜ、パンとバスケットの色だったら、家と暖炉の色と見なされるのでしょうか。家と暖炉がどうつながるのでしょうか。はたして「暖炉」の色は茶色といえるのでしょうか。
「暖炉」といえば、炎が燃えさかっているイメージがありますから、色として喩えるなら「赤」とか「黄」ではないでしょうか。日本と英語圏では色の認識が異なる可能性があるにしても、「暖炉」が「茶色」とは考えにくいですね。
なまじっか語彙力に自信のある人なら、「でも、home and hearthと書いてあるではないか。だから、家と暖炉の色にまちがいない」と反論してしまうでしょう。
しかし、それでは意味が通じない訳文ができあがってしまいます。
こういうときに頼りになるのが英和辞典です。さっそく英和辞典をひいてみましょう。
hearthという単語の意味を英和辞典で調べてみると、「路床」のほかに「家庭」という意味が載っていました。
また、英米人にとってhearthとは「家族だんらん」というイメージがある言葉であることも説明してあり、hearth and home で熟語として「家庭」という意味で載っていました。
つまり、上の英文のおいてはhearthを「暖炉」などと訳しては間違った訳になるのです。hearth and home で「家庭」と訳すべきでした。さっそく訳し直してみましょう。
宮崎訳:私たちは茶色を土や森の色として考えます。しかし、茶色はパンとバスケットの色でもあることから、家庭的な色としても見なされます。
hearth という単語を知らない人であれば、最初から英和辞典を引いていたことでしょう。そしてそのときに hearth and home という熟語にも目がとまっていたことでしょう。
しかし、なまじっか中途半端な語彙力がある人の場合、「hearth=暖炉」とやりがちなのです。「生兵法は大けがのもと」とはこういうことを言うのでしょう。
英和辞書をこまめに引く習慣はいつまでも持っていたいものです。特に、訳文を仕上げるときは、何度も訳文を読み返し、論理的におかしい箇所があれば、英和辞典をひいてみましょう。語彙力に自信がある人ほど、英和辞典をひく手間を省きがちですので、そういう人ほど注意しましょう。
40年も前になりますが、私が翻訳家になることを夢見始めた頃は、電子辞書など存在していませんでした。しかし今では電子辞書もそれほど高価でなくなり、多くの人が当たり前のように高性能な電子辞書を持つようになりました。電子辞書であれば、サササっと引くことができますので、なおさら引く手間を惜しまないようにしましょう。スピードが重要ではないとは言いませんが、間違った訳をするくらいなら時間をかけてでもより良い翻訳を志すべきでしょう。
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