日本語と英語の表記法の違いをどう処理するか(2)
日本語と英語の表記法の違いをどう処理するかについては、以前にもご説明したことがあります。要点としては、英文の中にイタリック体が使われていたり、小文字で表記すべきところが大文字になっていたりする場合、それによって原著者が何を表現しようとしていたかを考え、そのニュアンスを訳出することを心がけることです。
今回は前回ご紹介した例とは別の例で考えてみましょう。
まずは小文字で表記すべきところが大文字で表記されている場合です。
The problem MUST be solved.
直訳:その問題は解決しなければならない。
直訳すればこうなりますが、これでは The problem must be solved. を訳したのとまったく同じになってしまい、must がMUSTと大文字で表記されている意味が反映されていません。
では、それを反映した訳文にするにはどうすればいいでしょうか。MUSTを強調して訳してみましょう。
宮崎訳:その問題はなんとしてでも解決しなければならないのだ。
このように意図的に大文字と小文字を逆転してある場合、訳の中に著者のいわんとするニュアンスを表現することを心がけましょう。
次はイタリック体が使われている例を見てみましょう。
「傲慢な人であればあるほど、相手が服従することを求める。しかし、さまざまな原則を知れば知るほどそのような傲慢さはなくなり謙虚になる」という文に続く箇所です。
We become less concerned about who is right and more concerned about what is right.
直訳:誰が正しいかに対する関心は薄れて行き、何が正しいかに対する関心が増す。
このように訳せば、who とwhatがイタリック体になっていない場合とまったく同じ訳になってしまいます。著者はwho とwhatを強調したいがためにイタリック体にしているわけですから、それを訳文の中に表現しましょう。どうすればいいでしょうか。
方法は3つ考えられます。1つ目は字体を変えることです。2つ目は傍点を付けることです。3つ目はカッコ付きにすることです。ここでは字体を変えてみましょう。
宮崎訳:誰が正しいかに対する関心は薄れて行き、何が正しいかに対する関心が増す。
この例のように強調するためにイタリック体が使われる場合がありますが、それ以外にも著者による造語であることを示すためにイタリック体が使われている場合があります。その例を見てみましょう。
著者は、いまの社会はどんな社会であると言っているのでしょうか。
We live in an environment inundated by human doing, more than human being.
とまどってしまうのは、human doing でしょう。human being は「人間」という意味ですが、human doing という言葉はそもそも存在しません。この著者が作った造語だからです。
とりあえず、この2カ所を英語のまま残して直訳してみましょう。
直訳:私たちは、human being よりもhuman doing によって満たされた環境に住んでいる。
では、human being とhuman doing の解読に取りかかりましょう。著者がわざわざイタリック体を使っているときは、なんらかの意味があるからです。この場合では、著者が意図的に造語を使っていることを示しています。
では、どういう意味の造語なのでしょうか。それを解読する鍵はbeing とdoing の違いにあります。being には「~であること」という意味が、doing には「行為」という意味があることを考えれば、human being が「人間であること」を意味し、human doing が「人間が行なうこと」を意味していることが分かるでしょう。それを訳出してみましょう。
修正訳:私たちは「人間であること」よりも「人間が行なうこと」によって満たされた環境に住んでいる。
この訳では、まだ意味がすっと入ってきませんね。もう少しかみ砕いた訳に修正してみましょう。
宮崎訳:今の社会は「どういう人間であるか」よりも「何を成し遂げるか」を重視する社会である。
以上、今回のレッスンでは、日本語と英語の表記法の違いをどう処理するかについて前回とは別の例を挙げてご説明してみました。
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