TRANSLATION

出版翻訳と産業翻訳とでは目指すべきゴールが微妙に異なる

宮崎 伸治

出版翻訳家による和訳レッスン

今回から「出版翻訳家による和訳レッスン」を担当することになりました宮崎伸治と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

まずは簡単に自己紹介をさせていただこうと思います。

私が翻訳の勉強を始めたのは21歳のときでしたが、生業として翻訳でお金を稼ぐようになったのは27歳のときに某企業に翻訳スタッフとして採用されからのことでした。

その後、産業翻訳家として約5年(会社員として約3年、フリーとして約2年)ほどビジネスレター、契約書、マニュアル、レポート、新聞記事、パンフレットなどの英訳と和訳に携わりました。

産業翻訳家になって数ヶ月経つ頃には、翻訳家として抜きんでるには徹底的に英語力を磨く必要があると痛感し、イギリス留学を決意しました。それから手堅く留学資金を貯め、29歳でイギリスに渡り、2年ほど言語学の勉強に励みました。

帰国してから2年後に念願だった出版翻訳家としてデビューを果たすと、その後10年以上途切れることなく、ビジネス書、伝記、心理学書、詩集、医学書などの和訳に携わることができました。現在までに出版した翻訳書は約30冊にのぼります。

今回の「出版翻訳家による和訳レッスン」では、私の翻訳家としての経験をベースに出版翻訳における和訳テクニックをご紹介します。

出版翻訳と産業翻訳の両方とも携わってきた経験からいえることは、出版翻訳と産業翻訳とでは目指すべきゴールが微妙に異なるということです。

では、ここで一つ質問を出しましょう。これは翻訳をする上で極めて重要な質問ですので、じっくりと考えてみてください。

質問:「良い訳文」とはどんな訳文のことをいうのでしょうか

さて、あなたなりの答えが出たでしょうか。

この質問に対する私の答えは「日本語として読みやすく、かつ原文に忠実な訳文」です。

良い訳文か否かを判断する1つの基準は、日本語として読みやすいか否かです。読みやすい訳文であればあるほど「良い訳文」であり、読みにくい訳文であればあるほど「悪い訳文」といえます。その両極端の間に「そこそこ読みやすい訳文」もあれば「やや読みにくい訳文」などさまざまなレベルの訳文が存在します。

もう1つの基準は、原文に忠実か否かです。いくら読みやすくても原文からかけ離れた訳文は「良い訳文」とは言えません。特に正確さが要求される科学技術文書などでは原文からかけ離れてしまうと「悪い訳文」になってしまいます。

出版翻訳においても産業翻訳においても「日本語として読みやすく、かつ原文に忠実な訳文」を目指すことは同じです。ですから出版翻訳家であれ産業翻訳家であれ、翻訳するときは常に「私の訳文は日本語として読みやすいだろうか、原文には忠実になっているだろうか」と自問しながら取り組みましょう。

ただ、実際にはなかなか「日本語として読みやすく、かつ原文に忠実な訳文」には仕上がりません。翻訳をしたことのある人なら誰でも経験があるでしょうが、原文に忠実に訳そうとすればするほど日本語としてぎこちなくなりますし、逆に日本語として読みやすくしようとすればするほど原文からかけ離れてしまうものなのです。

しかしそれは当然といえば当然です。というのも英語と日本語は言語として非常に異なるだけでなく、背景にある文化も非常に異なるからです。「日本語として読みやすく、原文に忠実な訳文」に仕上げることは、たとえていえば野球のピッチャーが完全試合を達成するくらい難しいことなのです。

でも物は考えようです。完全試合を達成しなくても勝利投手になれば十分ピッチャーとして立派な仕事をしたといえます。それと同様、翻訳家も「非の打ち所のない訳文」に仕上げられなくても「日本語として多少ぎこちないところはあるが、原文に忠実な訳文」または「原文に忠実ではないところもあるが、日本語として読みやすい訳文」でも合格点に達する場合が多いのです。というより、それで合格点に達しないとすれば、恐ろしくて翻訳の仕事はできなくなるでしょう。

では、産業翻訳と出版翻訳のゴールはどう異なるのでしょうか。

産業翻訳においては一にも二にも正確さが命である場合が多いのです。なぜならマニュアルにしても契約書にしてもビジネスレターにしてもその主たる目的は情報を正確に伝達することだからです。ですから不正確な訳語が一つでもあると、それが大きなトラブルの元になります。ひどい場合は損害賠償問題に発展しかねません。したがって「日本語としての読みやすさ」は多少犠牲にしてでも正確に訳さざるを得ない場合があるのです。

一方、出版翻訳においては、その主たる目的が原著者の思想や感情を伝達することである場合が多いものですが、その場合は一語一語にこだわってガチガチに正確に訳すよりも、原著者が伝えたいことを汲み取って、そのメッセージを読みやすい日本語として表現したほうがいいのです(ただし情報の正確さが重要な文もありますので、日本語としての読みやすさを優先するか、原文への忠実さを優先するかはその場その場で判断しましょう)。

では今回のポイントをまとめましょう。
(1)出版翻訳と産業翻訳とでは目指すべきゴールが微妙に異なる。
(2)出版翻訳においては、その主たる目的が原著者の思想や感情を伝えることである場合、一語一語にこだわって訳すのではなく、原著者が伝えたいことを汲み取って、そのメッセージを読みやすい日本語として表現することを心がける。

次回からは実例を見ながら検討していきましょう。

拙書『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(三五館シンシャ)が発売中です。出版翻訳家(およびその志望者)に向けた私のメッセージが詰まった本です。参考まで手に取っていただければ幸いです。

Written by

記事を書いた人

宮崎 伸治

大学職員、英会話講師、産業翻訳家を経て、文筆家・出版翻訳家に。産業翻訳家としてはマニュアル、レポート、契約書、パンフレット、新聞記事、ビジネスレター、プレゼン資料等の和訳・英訳に携わる。
出版翻訳家としてはビジネス書、自己啓発書、伝記、心理学書、詩集等の和訳に携わる。
著訳書は60冊にのぼる。著書としての代表作に『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』(三五館シンシャ)が、訳書としての代表作に『7つの習慣 最優先事項』(キングベアー出版)がある。
青山学院大学国際政治経済学部卒業、英シェフィールド大学大学院言語学研究科修士課程修了、金沢工業大学大学院工学研究科修士課程修了、慶應義塾大学文学部卒業、英ロンドン大学哲学部卒業および神学部サーティフィケート課程修了、日本大学法学部および商学部卒業。

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