TRANSLATION

第312回 出版翻訳家が通訳をして思うこと

寺田 真理子

あなたを出版翻訳家にする7つの魔法

ものすごく久しぶりの通訳を、何とか無事に終えることができました。長年のブランクがあったわりには、通訳能力はわりと残っていたようで、「労力を注いで獲得した能力は、結構長く維持できるものなのかも?」という発見がありました。

翻訳と通訳の違いとして感じたのは、通訳はやはり「音声言語」ならではの注意点があるということです。たとえば、登壇者の自己紹介の際に「博士」とあるのを、私は「はくし」と読みました。研究者の方も会場にいらっしゃることを考えての選択でしたが、通訳してすぐ「会場には一般の方のほうが多いはずだから、『はかせ』のほうがなじみやすかったかも? 聴衆との距離感を間違えたかしら?」と悩みが生まれました。

また、特定の数字について登壇者が言及した際、「今こう言ったけど、資料のほうは別の数字になってるし、私の記憶でもそちらが正しいはず。『何か忘れたらフォローしてね』って言われてたから、ここは正しいほうの数字に修正しておこう」と、通訳のほうで修正しました。でも、すぐに「聞いている人は英語と日本語で数字が違うってわかるから、通訳が間違えたと思われて、通訳への信頼が損なわれるのでは?」とまたしても悩みが……。

それ以外にも、「ほら、今のところ取りこぼしたでしょ!」とか、「今、ちょっと無理に力業で言い切ってまとめたでしょ!?」とか、私の脳内の通訳ジャッジが終始厳しいツッコミを入れてきまして……。それに対し「うわっ、すいません!」「あ、いや、これはその、ええと」と脳内でしどろもどろの言い訳を続けていたのでした。普段はゆっくりゆっくりとしか脳が回転していないこの頃なのに、通訳しながら脳内一人ボケツッコミが展開できるとは思いませんでした。通訳よりも、脳内ジャッジへの対応で疲弊した気がします……。

実は、今回は関連資料の翻訳も手がけたのですが、ここでもいろいろと悩むことがありました。たとえばauthorという肩書ひとつとっても、「著者」とするか「著述家」などの表現にするか、それとも「作家」にするか、とあれこれ考えました。「作家」だと小説家のニュアンスが強いので違和感を覚える方もいるかもしれないと思ったものの、最終的には「作家」にしました。それは、本人が詩も書いていて、自己認識としては作家のほうが近いのではないかと思い、それを尊重して表現したかったからです。

大量の資料を短時間で翻訳しないといけない状況だったため、DeepLも活用しましたが、なかなかギョッとするような翻訳をしてくれました。people with dementiaを「認知症患者」と訳出してきたのです。これは今回のイベントの趣旨からしたら、とんでもないことでした。

というのも、このイベントは認知症当事者の方々が主体となって、認知症への偏見をなくし、新しい認知症観に基づく支援を考えていこうというものなのです。そんな中、「認知症患者」は古い医学モデルに基づく、まさに今回の趣旨とは正反対の言葉です。「この心無い翻訳……さすが機械……」と思いました。

私は普段、people with dementiaを、「認知症がある人」と訳しています。メディアでは「認知症の人」という表現が多いですし、どうしても冗長になってしまう場合はその表現を採用しますが、「認知症=その人」となってしまわないように、できるだけ切り離したいという思いがあります

今回のイベントの場合は権利擁護の意味合いが強いので「認知症当事者」と訳しましたが、そういうふうに意図を持って訳すのは人間の仕事なのだと感じました。もちろん、DeepLも普段から活用して設定しておけば別ですが……。ビジネス文書やある程度理路整然としたものなら下訳として活用できるものの、そうではない書籍の翻訳では、今のところかえって邪魔になるのです。

とはいえ進歩の速さを考えると、あと1年もすればかなり変わるのかもしれませんね。それでも、その時に第一候補として提示される訳語が「認知症患者」とならないようにするには、社会の認識が変わって、「こういう訳語は失礼だ」という感性が育っていないといけないわけですよね。技術の進歩と同じくらいのスピードで、社会の認識も変わってくれることを願います。

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Written by

記事を書いた人

寺田 真理子

日本読書療法学会会長
パーソンセンタードケア研究会講師
日本メンタルヘルス協会公認心理カウンセラー

長崎県出身。幼少時より南米諸国に滞在。東京大学法学部卒業。
多数の外資系企業での通訳を経て、現在は講演、執筆、翻訳活動。
出版翻訳家として認知症ケアの分野を中心に英語の専門書を多数出版するほか、スペイン語では絵本と小説も手がけている。日本読書療法学会を設立し、国際的に活動中。
ブログ:https://ameblo.jp/teradamariko/


『認知症の介護のために知っておきたい大切なこと~パーソンセンタードケア入門』(Bricolage)
『介護職のための実践!パーソンセンタードケア~認知症ケアの参考書』(筒井書房)
『リーダーのためのパーソンセンタードケア~認知症介護のチームづくり』(CLC)
『私の声が聞こえますか』(雲母書房)
『パーソンセンタードケアで考える認知症ケアの倫理』(クリエイツかもがわ)
『認知症を乗り越えて生きる』(クリエイツかもがわ)
『なにか、わたしにできることは?』(西村書店)
『虹色のコーラス』(西村書店)
『ありがとう 愛を!』(中央法規出版)

『うつの世界にさよならする100冊の本』(SBクリエイティブ)
『日日是幸日』(CLC)
『パーソンセンタードケア講座』(CLC)

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