第310回 出版翻訳家が通訳する時
出版翻訳家には、翻訳はしても通訳はしない方が多いでしょう。かくいう私も、通訳というヤクザな稼業からは足を洗ったつもりでいましたが……なんと、久しぶりに通訳をすることになりました。
バレリーナは1日休むと自分でわかる、3日休むと観客にわかる、などと言われますが、長年休み続けているうえに、「ほら、あの映画の主役の、あの俳優さん」と日常会話から固有名詞が消え去っている私はいったいどうなるのでしょうか……。
通訳をすることになったのは、以前に翻訳した本の著者の来日講演が決まったからです。内容をよく把握している私が通訳するのがいいのでは、と打診されたのでした。
実は、このところ、「もっと英語を話す機会が欲しいな」と思っていました。今でもCNNやabcのニュースは毎日聴いているので、1日2時間くらいはリスニングをしていることになります。インプットだけだとバランスが悪いので、アウトプットの機会があったほうがいいはず。
かといって、ただ英会話をしたいわけでもないし、観光客のアテンドをしたいわけでもないし……と思っていたところに今回のご依頼があり、「なるほど、こういう形で願いが叶ったか」と面白がりながらお引き受けしたのでした。
今回の講演会は、600名ほど参加できる会場とのこと。久々の通訳で600名となると尻込みしてしまいそうですが、「ふんふん、なるほど。そのくらいの規模なのね」と思うことができました。これは、より大規模な会場を経験できていたおかげです。昨年、大ホールで講演をさせていただく機会があり、その時に1500名ほどの参加者がいらっしゃいました。だから、「あの時の3分の1くらい?」と捉えて気持ちをラクにできたのです。
大ホールを経験できて良かったことは、「とにかくそこにいるしかない」と体感できたことです。取り繕いようがないと観念しました。どういうことかというと、小手先のことをあれこれやっても仕方ないと思ったのです。ちょっと話術を磨いて参加者を惹きつけることができたとしても、結局は、私がどういう人間なのか、すべて伝わってしまうんだな、と。人間って、相手がどういう人間なのか、本能的に感じ取るものだと思うのです。良くも悪くも、自分という人間のことはすべて伝わってしまうので、ただただその場にいることに徹しようと考えられるようになりました。
心構えはそれでいいとして、具体的な準備を始めないといけません。著者は認知症の当事者の方で、世界中で講演活動をされています。まずはYouTubeで講演の様子をチェックしながら、話の内容や著者の問題意識の在り方などを身体に入れ込んでいきます。
認知症というといまだに偏見が根強いですが、症状や困りごとは人それぞれ。そして、できることも多くありますし、得意な分野の能力は高いのです。実際、以前に著者にお会いした際、私の質問に的確に答えながら、仲間とも会話をし、その合間に論文の査読も進めていて、「私の10倍は処理能力が高い……!」と感じたものです。
今回は著者の講演だけでなく、日本の当事者の方々とのディスカッションもあります。それぞれの方の講演の様子もYouTubeで見ることができるので、どんなバックグラウンドの方なのか、どういう主張をされているのかなどをチェックしていきます。
仕事柄、認知症関連の話題は追っているのですが、日本語だけで把握している言葉も多いので、「この定訳ってあるのかな?」「これって英語だとどう表現するんだっけ?」というものをピックアップしていきます。
ひとまずここまでの作業は終えたので、あとは調べものを済ませて、翻訳をした本を読み返して、著者と脳波をシンクロさせていく予定です。当日はイタコになるのが理想。
こうやって考えてみると、通訳のために必要な準備も、翻訳のために必要な準備も、それほど変わらないのかもしれません。実際の仕事時間より、準備にかかる時間のほうがはるかに長いところも共通します。それでも、やはり届けたいメッセージがあると、がんばれるものなのでしょうね。
講演をきっかけに本を手に取ってくれる方もいらっしゃるでしょうから、手がけた本のためにも、しっかり通訳をしてきます。
出版翻訳をきっかけに通訳の機会に恵まれることもあるでしょう。「自分の語学力ではとても……」と思ってしまうかもしれませんが、「いや、待てよ。寺田さんも、かなりブランクがあったけど挑戦していたな」と、一歩を踏み出すきっかけになればうれしいです。
また気づいたことがあったら、お伝えしていきますね。ともかく、チョコレートだけは確保して臨みます……!
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