TRANSLATION

第302回 4年越しの企画がついに実現!⑩

寺田 真理子

あなたを出版翻訳家にする7つの魔法

きちんと研究書として成立しているけれども、一般の読者にも読みやすい。そんな「研究書の限界を探る」という方針で、翻訳に手を入れることになりました。今回の連載では、具体的にどこにどう手を入れているのか、その理由とともにご紹介します。

まずは、元の翻訳を見ていきましょう。

〝ある男性は、自分がよい状態でいるかを娘が気にするのがつらいと話してくれました。アルツハイマー病と診断されたことよりも、娘に心配されることを憂えていたのです。彼はこれまでの日課を守って、2階建てバス(訳注:旧式のロンドンルートマスターバスで、後端がオープンプラットフォームになっているもの)で街に出かけて新聞を買い、店を見て回ってから自宅で昼食をとりたかったのです。しかし娘は、バスの後端から落ちて怪我をするのでは家までの道のりわからなくなるのではと心配していました。「もし落ちたら、そのときはそのときさ。アルツハイマー病だからって関係ないよ。自分がどこにいるかわからなくなれば、誰かが助けてくれるだろう。私は最後まで自分らしく生きたいんだ」彼は渋々ながら、財布に身分証を入れて持ち歩き、お気に入りの帽子に名前と住所を入れたラベルを縫い付けることに同意しました財布よりも帽子のほうが失くしにくかったのです。”

手を入れた後の翻訳は、以下のようになりました。

〝ある男性は、自分のウェルビーイングを娘が気にするのがつらいと話してくれました。アルツハイマー病と診断されたことよりも、娘に心配されることのほうがつらいというのです。彼としては、これまで通りに日課をこなしたいと思っていました。2階建てバス(訳注:旧式のロンドンルートマスターバスで、後端がオープンプラットフォームになっているもの)で街に出かけて新聞を買い、店を見て回ってから自宅で昼食をとりたかったのです。しかし娘は、バスから落ちて怪我をするかもしれない帰り道わからなくなるかもしれない、と心配していました。「もし落ちたら、そのときはそのときさ。アルツハイマー病だからって関係ないよ。どこにいるかわからなくなったら、誰かが助けてくれるだろう。私は最後まで自分らしく生きたいんだ」そう言っていた彼ですが、渋々ながら、娘の提案を受け入れることにしました。財布に身分証を入れて持ち歩き、名前と住所の入ったラベルをお気に入りの帽子に縫い付けることにしたのです。財布は失くしても、帽子を失くすことはそうないので、こんな対策をとったのです。”

一つひとつ解説していきますね。

よい状態→ウェルビーイング
もともと、認知症ケアでは「よい状態」という言葉が定訳になっていたのですが、近年の「ウェルビーイング」という言葉の浸透状況を考えて、今回は「ウェルビーイング」を使うことにしました。用語の説明については、冒頭部分などに目を引く形で訳注を入れることを考えています。

憂えていた→つらいという
「憂えていた」では堅苦しいので、カジュアルな表現に変えています。英語だと同じ言葉を使うことを避けようとしますが、日本語の場合、むしろ直前に使った「つらい」を繰り返し使ったほうが話が通じやすくなるので、同じ表現にしています。

彼はこれまでの日課を守って→彼としては、これまで通りに日課をこなしたいと思っていました。
日課の具体的な内容が長かったので、この部分は文章を分けました。小説であれば、著者の文章の呼吸を伝えるために、長文なら長文のままで訳す配慮をします。本書の場合は研究書なので、呼吸よりも理解のしやすさを優先しています。

バスの後端→バス
「後端」という画数の多い漢字があるだけでも読みづらさを感じる読者のために、「後ろ」にしようかとも思ったのですが、それでも「なんでバスの後ろから落ちるの?」と引っかかってしまいますよね。訳注にあるように、2階建てバスで後ろがオープンになっているからなのですが、訳注は読み流してしまう読者が多いでしょう。かといって「2階建てバスのオープンになっている後ろのほうから」などと説明を加えると、今度はそこに必要以上に注意が向いてしまいます。ここで強調したいのは、「怪我をするかもしれない」ということのほうです。さらには、それも娘の心配の一例として挙げられているものです。それなら引っかからずに読み流せたほうがいいので、単に「バス」としました。

怪我をするのでは、家までの道のりがわからなくなるのでは→怪我をするかもしれない、帰り道がわからなくなるかもしれない
「のでは」という表現も、もっとカジュアルなほうがいいので、「かもしれない」に変えました。もたつきは出ますが、やわらかさも出るので、全体として読みやすくなると考えました。「家までの道のり」はシンプルに「帰り道」にしました。

自分がどこにいるかわからなくなれば→どこにいるかわからなくなったら
話し言葉としては、「自分が」をつけないほうが自然です。また、言い方も「わからなくなったら」のほうが、その前の「もし落ちたら」に続く話し言葉として自然なので、こちらに変更しました。

彼は~同意しました。→そう言っていた彼ですが、渋々ながら、娘の提案を受け入れることにしました。
その前の父親の言葉につながりやすいように「そう言っていた彼ですが」と言葉を足しています。また、文章が長いので2つに分けています。「同意しました」という部分には状況説明を加えました。さらに言えば、私はこれまでは「受け容れる」という表記を好んで使っていたのですが、「受け入れる」のほうが一般的にはやはり読みやすいかと思い、今回はこの表記を選んでいます。

財布よりも帽子のほうが失くしにくかったのです。→財布は失くしても、帽子を失くすことはそうないので、こんな対策をとったのです。
この部分も元のままだと読者が少し突き放されたように感じるかもしれないので、状況説明を加えています。

……という具合に手を入れていっているのですが、あれこれと細かい判断が多いので、脳も疲れますし、時間もかかります。しばし取り組んでは、「お腹すいた……」と言って何かつまんではまた戻る、ということをやっています。

実は、「思考体力がない」というのが私の弱点なのですが、この翻訳に取り組むことで、否応なく思考体力をつけるトレーニングに取り組むことができています。すべて手直しを終える頃には、かなり強化されているはず……そう期待して、引き続きがんばります!

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Written by

記事を書いた人

寺田 真理子

日本読書療法学会会長
パーソンセンタードケア研究会講師
日本メンタルヘルス協会公認心理カウンセラー

長崎県出身。幼少時より南米諸国に滞在。東京大学法学部卒業。
多数の外資系企業での通訳を経て、現在は講演、執筆、翻訳活動。
出版翻訳家として認知症ケアの分野を中心に英語の専門書を多数出版するほか、スペイン語では絵本と小説も手がけている。日本読書療法学会を設立し、国際的に活動中。
ブログ:https://ameblo.jp/teradamariko/


『認知症の介護のために知っておきたい大切なこと~パーソンセンタードケア入門』(Bricolage)
『介護職のための実践!パーソンセンタードケア~認知症ケアの参考書』(筒井書房)
『リーダーのためのパーソンセンタードケア~認知症介護のチームづくり』(CLC)
『私の声が聞こえますか』(雲母書房)
『パーソンセンタードケアで考える認知症ケアの倫理』(クリエイツかもがわ)
『認知症を乗り越えて生きる』(クリエイツかもがわ)
『なにか、わたしにできることは?』(西村書店)
『虹色のコーラス』(西村書店)
『ありがとう 愛を!』(中央法規出版)

『うつの世界にさよならする100冊の本』(SBクリエイティブ)
『日日是幸日』(CLC)
『パーソンセンタードケア講座』(CLC)

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