TRANSLATION

第289回 出版翻訳家デビュー記念インタビュー~酒井瞳さん 後編

寺田 真理子

あなたを出版翻訳家にする7つの魔法

出版翻訳家デビューサポート企画から見事にデビューを果たされたSさんこと酒井瞳さんのインタビューをお届けしています。酒井さんが翻訳された『二つ以上の世界を生きている身体――韓医院の人類学』(キム・テウ著)について、本書のこだわりや読みどころ、酒井さんの頑張りを支えたものについてお話を伺いました。

寺田:読者に届けるために、どんな工夫をされたのか教えてください。

酒井:注のつけ方を工夫しました。デザイナーさんが「見開きの左端に注をつけるパターン」と「各ページの端に注をつけるパターン」と二つのパターンを提案してくださいました。それぞれにいい点と悪い点があるので、編集者さんにもご相談しました。東洋医学と西洋医学を扱っていて、こういう観点で人類学を扱った本は日本ではなかなかないですし、東洋崇拝と受け取られかねないことを著者の先生は懸念されていました。そうではないことが伝わるような書き方をされているのですが、注を丁寧に読んでいただかないと誤解されかねない、そんな可能性をはらんだテーマのため、「各ページの端に注をつけるパターン」のほうにしました。本文と注が近くにあるので、目で追いやすくなっています。

寺田:すごく読みやすかったです。こういう配置になっていると、注もちゃんと読みますよね。本書はカバーデザインも印象的ですが、いろいろと他にもこだわってつくっていそうですよね。

酒井:日本語版のカバーには原書の装画をそのまま使うことになりました。そのため見た目の印象は原書ととても似ているのですが、デザイナーさんの案で、青い文字と赤い文字を使うことで、『二つ以上の世界を生きている身体』というタイトルにある二つの世界の存在がパッと見て伝わるようになっています。いかにも「学術書です」という感じだと手に取っていただけなくなる可能性があります。一般書として企画した本ですので、手に取りやすいイメージを意識してつくっていただきました。各章の扉にも日本語で章タイトルが入っていますが、そこにハングルが薄く入って二つの世界を表現しています。これもデザイナーさんが考えてくださいました。

寺田:そうやって考えてご提案いただけるのは、うれしいですよね。

酒井:はい、すごくうれしかったです。お会いしたこともお話したこともなくても、文章を介して交流できるというか……。読んでくださって、そこから感じたインスピレーションでデザイナーさんなりの表現に落とし込んでくださっていることに感動しました。

寺田:人文書が好きな読者のストライクゾーンど真ん中という感じがします。書店で見かけたら「あっ、これ読みたい!」と手に取るような仕上がりになっていると思います。本書の読みどころについて教えてください。

酒井:1章から3章までは読みやすいのですが、4章、5章と「おわりに」は哲学の内容がふんだんに入ってくるほか、東洋医学の知識も入ってきますので、少し読みにくいというか、内容が濃くなったと感じられるかと思います。けれども、この部分を読むことで、東洋医学の身体の見方や薬の使い方が普段の自分たちの世界と違っていることを体感していただけるようになっています。それが本書の醍醐味ですので、一見難解に思われるかもしれませんが、ぜひ読んでいただきたいと思っています。心地良い難しさを味わえると思います。

寺田:そこを味わうことがないと、もったいないですものね。酒井さんが本書を通してお伝えしたいのは、どんなことでしょう?

酒井:タイトルを見て手に取ってくださるのは、人文書が好きな方や、漢方や東洋医学に興味のある方が多いのではと思います。誰にでも手に取っていただけるかとなると、ハードルは高いのかもしれません。けれども、本書を翻訳していちばんお伝えしたいと思ったのは、自分の中の「当たり前」から離れてみることと、他の人の「当たり前」に立って世界を眺めてみること、その二つの体験なんです。そうすることで、普段自分が見慣れた世界が全く違ったものとして立ち上がってくる。それは、すごく価値があるというか、希望を持てる体験だと考えていますし、「訳者あとがき」にもそう書かせていただきました。漢方や東洋医学、人類学に対する関心から読んでくださるのももちろんありがたいのですが、読んでくれた方が自分の中の選択肢が増えて生きやすくなったり、生き心地が良くなったりしてくれたらいいな、と。固定観念に縛られたり、選択肢がないと思って追い詰められたりしている時に、本書を読んでその体験をしていただくことで、ふっと力が緩むような本にしたいと思って翻訳しましたので、そこを感じていただけたらうれしいです。

寺田:そういうことを大事だと考えるようになる原体験があったのでしょうか。

酒井:原書に出逢ったのは2021年の初めだったのですが、当時はコロナの影響下にありました。2020年の11月に出産し、生後3ヶ月くらいの息子の育児をしながら原書を読んでいました。妊婦や0歳児がコロナにかかると危ないとか、人と接触してはいけないと言われていましたが、ホルモンバランスが崩れて不安定になっていましたし、他のお母さんたちと話したい、実家に帰りたいという思いがありました。情報をいろいろ調べて不安になり、感染対策については正解がなく、専門家の間でも意見が分かれていましたし、何を信じればいいのかわからない状況でした。意見の違う人たちが互いにすごく攻撃的に、排除するような言い方で戦ったりすることも、当時の自分にとっては恐怖でした。コロナに限らず、違うものを受け容れられないとか、受け容れることに強く抵抗して、それによって自分や相手を追い詰めるような、そういう苦しい感情の動きが排他的なやりとりの根本にあるのかな、と感じました。本書がそれに対するひとつの回答になっているのではないかと思いました。

寺田:そういう部分で共感して読んでくださる方もいらっしゃることと思います。酒井さんのご様子をこれまで拝見しながら、「この方はどうしてこんなに頑張れるんだろう?」とずっと思っていました。読み込んだ参考文献の量や、かかったお時間を考えると、本書の翻訳は本当に大変だったと思うんです。しかも初めての書籍の翻訳ですし、お子さんもまだ小さくて手がかかるでしょうし……。その頑張りを支えている原動力は何なのでしょう?

酒井:大学卒業後、新卒で入った会社で営業職に就いていたのですが、2年目の時に大学院に行きたいという思いになりました。独身で自分だけのために時間やお金が使える時に、落ち着いて自分だけのために選択した答えで、大学院に進みました。ですので、その時に挑戦していたことや、それに関することは、自分にとってやりたいことで意味があることだという、判断が鈍らない確信がありました。興味があるものや好きなものの範囲がそれほど広くないので、逆に言えばそういうものしか続けられないのですが……。人生のいちばん大変な時に大変なことに挑戦したと言われましたが、石橋を叩かないで渡ってしまうところがあります。橋の質を調べもせずに渡ってしまうところがあるので、子どもを産んで育てながら自分の大きな目標に飛び込むことの大変さを、やってみて痛感しました。あまり考えていなかったんです(笑)。

寺田:それでも、途中で嫌になって投げ出してもおかしくないところを、最後までやり遂げられたのが素晴らしいと思います。

酒井:寺田さんがつないでくださったご縁もありましたし、編集者さんも伴走してくださいましたので、そういった関係性の中でいい影響をいただきながら頑張ることができました。出版翻訳家デビューサポート企画のみなさまの頑張っているご様子をオンラインの集まりで見ることもできましたし……。自分ひとりで閉じこもってやっていたら不可能だったかもしれないと思いますが、自分の足りないところを指摘して導いてくれる編集者さんがいて、今の段階までいろいろな方のご縁で来ていると思うと、それが励みになって、投げ出すわけにはいかないと思いました。投げ出すということが思い浮かばないくらい、必死にやっていました。

寺田:着々と進めていらして、感心しながらいつも拝見していました。この出版翻訳家デビューサポート企画にご参加いただいて、どんなことがご参考になりましたか。

酒井:企画書や試訳のつくり方、持ち込みのプロセスといったノウハウのすべてです。あとはメンタルのつくり方や維持の仕方です。たまたま1社目で運よく企画通過しましたが、企画書や試訳の見直しをしていた最中にも他の方の進行のご様子を伺うことができたので、もし1社目に持ち込んだところがダメでも次の手を柔軟に考えていく姿勢を、みなさんの実際の取り組みから学ばせていただけたのは大きかったです。ひとりで本を読んで企画書や試訳のつくり方を学んだだけでは得られなかったものだと思います。

寺田:ありがとうございます。ご出版されたばかりですのでまだ考えられないかもしれませんが、今後の抱負を教えてください。

酒井:私の場合は翻訳を仕事にしたいと言うよりも、「これを訳したい!」という原書との出逢いから始まった動機でしたので、具体的な今後の抱負はなかったのですが、今回訳してみて、翻訳する楽しさと難しさを体験することができました。もし衝動に突き動かされるような本とまた出逢った時には、果敢に挑みたいと思います。

寺田:またこれだけの苦労をしてもいいと思えるほどの、素敵な本との出逢いがあることを期待しています。最後にこの連載の読者へのメッセージをお願いします。

酒井:出版に関する経験は全然なかったですし、持ち込みも自己流でやって行き詰まっていたので、今に至っているのは、出版翻訳家デビューサポート企画に受け容れてくださった寺田さんや、ご紹介いただいた編集者さん、著者さん、担当編集者さんと、こうやってつながったご縁のおかげだと思っています。翻訳出版したい方は、私と同じようにどんなに経験がなくても、たとえ経験ゼロだとしても、訳したい原書があったら、コツコツと、細々とでも自分にできる最大限の準備をしておくことです。「この人についていきたい」という人に出逢った時に、タイミングを逃さないように準備しておくことに尽きると思います。経験がない方でもあきらめないでほしいと思います。

寺田:きっと多くの読者の方々の励みになることと思います。この度はご出版本当におめでとうございます! 本日はありがとうございました。

出版翻訳のアドバイスのために酒井さんとはメールのやりとりを続けてきましたが、その度に酒井さんの真摯で誠実な姿勢を拝見し、かえって私のほうが人として多くのことを学ばせていただきました。そういう姿勢が運を呼び込むのだなあと実感しました。このインタビューを通して、読者のみなさまにそんな部分もお福分けできればうれしいです。

※酒井さんの翻訳されたキム・テウ(김태우)著『二つ以上の世界を生きている身体』(한의원의 인류학: 몸-마음-자연을 연결하는 사유 와 치유)に関する情報は柏書房のXをご覧ください。「冒頭試し読み」記事も公開されています。

拙著『古典の効能』の読書会を9月28日(土)に浅草の書店さんで開催いたします。この連載の読者のみなさまともお会いできればうれしいです。

※この連載を書籍化した『翻訳家になるための7つのステップ 知っておきたい「翻訳以外」のこと』が発売中です。電子書籍でもお求めいただけますので、あわせてご活用くださいね。

※出版翻訳に関する個別のご相談はコンサルティングで対応しています。

 

Written by

記事を書いた人

寺田 真理子

日本読書療法学会会長
パーソンセンタードケア研究会講師
日本メンタルヘルス協会公認心理カウンセラー

長崎県出身。幼少時より南米諸国に滞在。東京大学法学部卒業。
多数の外資系企業での通訳を経て、現在は講演、執筆、翻訳活動。
出版翻訳家として認知症ケアの分野を中心に英語の専門書を多数出版するほか、スペイン語では絵本と小説も手がけている。日本読書療法学会を設立し、国際的に活動中。
ブログ:https://ameblo.jp/teradamariko/


『認知症の介護のために知っておきたい大切なこと~パーソンセンタードケア入門』(Bricolage)
『介護職のための実践!パーソンセンタードケア~認知症ケアの参考書』(筒井書房)
『リーダーのためのパーソンセンタードケア~認知症介護のチームづくり』(CLC)
『私の声が聞こえますか』(雲母書房)
『パーソンセンタードケアで考える認知症ケアの倫理』(クリエイツかもがわ)
『認知症を乗り越えて生きる』(クリエイツかもがわ)
『なにか、わたしにできることは?』(西村書店)
『虹色のコーラス』(西村書店)
『ありがとう 愛を!』(中央法規出版)

『うつの世界にさよならする100冊の本』(SBクリエイティブ)
『日日是幸日』(CLC)
『パーソンセンタードケア講座』(CLC)

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