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第288回 出版翻訳家デビュー記念インタビュー~酒井瞳さん 前編

寺田 真理子

あなたを出版翻訳家にする7つの魔法

出版翻訳家デビューサポート企画から見事にデビューを果たされたSさんこと酒井瞳さん。酒井さんが企画を持ち込んだ『二つ以上の世界を生きている身体――韓医院の人類学』(キム・テウ著)が8月22日に配本となりました。今回の連載では、デビュー記念インタビューをお届けします。企画が通過してからのプロセスを中心に、読者のご参考になるお話を伺いました。

寺田:この度はご出版おめでとうございます。デビューサポート企画に応募してくださったきっかけから、まずは教えてください。

酒井(以下敬称略):翻訳したいと思った原書に出逢ったのが2021年のことでした。企業のホームページやウェブメディアの翻訳は経験していましたが、出版翻訳は初めてでしたので、どうすれば実現できるのかを調べていたところ、ハイキャリアの連載を見つけました。企画書のつくり方や試訳について、経験のない私にもわかるように丁寧にノウハウを説明してくれていましたので、それを参考に初めて企画書をつくり、試訳も用意しました。自分なりに出版翻訳コンテストに応募したり、出版社のホームページのお問い合わせ欄から持ち込んでみたりしたのですが、なかなかうまくいかず、しばらくして行き詰まってしまいました。そこで、もう一度連載を読ませていただこうとサイトを拝見した際に、サポート企画の募集を知りました。

寺田:熱意溢れるメールをいただので、とても印象に残っています。ご出産をひかえてお仕事も続けながら、通勤中やお昼の休憩時間を縫って連載を読み、企画書や試訳のご準備をされたんですよね。人生でもおそらくいちばん大変であろう時期に、出版翻訳の持ち込みという大変なことを始められたことに驚きました。ここまで本当に頑張られましたよね。その頑張りがあったから、こうして出版翻訳の夢を叶えられたのだと思います。企画が通ってからご出版に至るまでは、どのようなスケジュールで進んだのでしょうか。

酒井:初めて編集者さんにお会いしたのが去年の6月で、企画会議を通過したのが7月のことです。8月末には版元同士の契約が締結されました。今年の2月にすべての訳文を提出することになっていたのですが、初めての出版翻訳で私が自分の訳文にあまり自信がなかったので、12月の時点で1章分の試訳を提出して、翻訳の雰囲気や訳注の入れ方について編集者さんからアドバイスをいただきました。2月にすべての翻訳を提出し、それに対してコメントをいただいて以降、2月後半から5月は編集者さんとのやりとりを重ねて翻訳を練り上げました。5月末に入稿し、6月、7月にゲラのチェックをして、7月末に校了しました。

寺田:企画の通過がゴールのように思いがちですが、実際には通過してからのプロセスが長いものですよね。そのプロセスの中で、どんなことが印象に残っていますか。

酒井:編集者さんは忙しくて持ち込み企画のことを忘れてしまうから、リマインドが必要になるとお話を伺っていましたので、その心づもりでいたのですが、編集者さんがとても迅速丁寧に対応してくださったんです。最初に編集者さんにお会いしたのが6月で、版元同士の契約が成立したのが8月末で、テンポよく進めてくださいました。自分が目標としていたことが一度に進んで叶ったことが夢見心地で、実感が湧くのに時間がかかったことが印象的でした(笑)。

寺田:たしかに、いろいろなことがすごくスムーズに行きましたよね。

酒井:はい。ご縁と運に恵まれました。

寺田:編集者さんのご関心と本書の内容が重なっていたことも大きいのではないでしょうか。

酒井:初めてお会いした時に、ご自身でも漢方薬や鍼灸を使うことがあると教えてくださったので、それもあったと思います。本書の内容に近い分野の著者の方を通して編集者さんをご紹介いただきましたが、その際に、「この方だったら合うのではないか」ということを配慮してくださったのだなあと感じました。

寺田:編集者さんの手がけられた本が紹介されたサイトを拝見して、本書のテーマに通じることを感じましたし、本書が読者に向けて丁寧につくられていることからも、編集者さんの真面目で誠実なお仕事ぶりを感じました。

酒井:直接お会いしたのは一度で、あとはすべてメールでのやりとりなのですが、すごくそのように感じました。

寺田:基本はメールでのやりとりだったんですか。

酒井:はい、そうなんです。私もこういったお仕事が初めてでしたので、ZOOMや電話、メールの割合がどれくらいになるのか想像がつかなかったのですが、基本的にメールでやりとりさせていただきました。

寺田:そうだったんですね。本書は内容も込み入っていますし、対面かZOOMでの話し合いを重ねられたとばかり思っていました。この内容をメールでやりとりすると、かなり長文になりそうですが……。

酒井:私がワードで提出した翻訳にコメントをつけてくださって、それを読んでお返事をするという形でしたので、メールではそれほど長文にはならず、コメントでのやりとりでした。

寺田:すごく長いコメントになりそうです(笑)

酒井:そうですね、難しい箇所ではコメントが長かったりします。一般読者にとって難しい、わかりにくい、と感じる箇所には丁寧にコメントをつけてくださったので、それを受けて私が文章を変えたり、訳注をつけたり、ということを一つひとつやっていきました。

寺田:そのやりとりを何往復もされたのでしょうか。

酒井:慣れている翻訳家であれば、本来は2往復くらいで済むのでしょうし、編集者さんもそれを想定されていたのでしょうが、2月に最初の訳文を提出した際に、コメントをつける箇所が多すぎて、2往復では無理だと感じられたのだと思います。出版時期について、契約期間には余裕がありましたので、質を重視して、2往復ではなく、編集者さんがOKだと思えるまで往復したほうがいいだろうということになりました。当初6月下旬に予定していた出版を8月下旬に変更し、2月後半から5月までの期間を往復作業にあてました。

寺田:編集者さんからのコメントをいただいて気づくことや学ぶことも多かったのではと思います。

酒井:編集者さんは、訳文を読んで「学術的な内容をどこまで噛み砕けるか、噛み砕くべきか」と「日本語表現としてどうすれば読みやすくなるか」という、二つの課題を分けて明確に提示してくださいました。前者は私が内容を理解できさえすれば、噛み砕いたり、参考文献を漁って訳注をつけたりできるのですが、後者に関しては他の翻訳家の方の類書を探して勉強する必要がありました。科学的な内容を一般向けに翻訳した本を読みながら、どうすれば日本語として読みやすくなるかを検討しました。2月に提出した時点では、学術的な内容を一般向けに解きほぐす点でも私の工夫が足りておらず、日本語としても硬かったと思います。その読みづらい文章に対し、課題を分けて、どうすれば読みやすくなるかを明確に示してくださったので、すごく助かりました。

寺田:単に「ここが読みづらい」と指摘するだけではなく、そのように方向性を示してくださったのですね。いい編集者さんとご一緒することができましたね。

酒井:本当にいい本をつくりたいとか、翻訳する私と一緒にこの本をつくっていきたいと思ってくださっているのが伝わってきました。そのために必要なことを惜しまない姿勢で臨んでくださいました。最初に提出した訳文には、コメントが必要な箇所が多すぎて、コメントをつけるのが大変だったと思うのですが、とても丁寧に向き合って、道しるべを与えてくださいました。2月の時点では、私が未経験なために編集者さんには頭の痛い思いをさせてしまったと思いますが、そのおかげでここまで来ることができました。

寺田:その甲斐あって、読みやすく仕上がりましたよね。日本語を読みやすくするために他の翻訳家の方の類書を参考にされたとのことですが、それは編集者さんが「これを参考にしたらいいですよ」と提示されたわけではなく、ご自身で探されたのでしょうか。

酒井:はい、そうです。編集者さんが翻訳書を何冊か手がけられていることを存じていましたので、まずはそちらを探して読み、次にその中から、同じ翻訳家の方の他の作品を探して読みました。

寺田:具体的にどんなところが参考になりましたか。

酒井:大学院時代に研究室で読んでいた学術書は、先生の解説つきで読んでいくことで初めて理解できるようなものでした。これまで読んできた学術書がそうでしたので、それに影響されてしまい、どうしても直訳的、論理的な日本語訳になっていました。もちろん学術書の場合、大前提として原文に正確であることが求められますし、過剰に意訳したり噛み砕いた表現を用いたりすると、訳者の知識不足や解釈違いがあった時にそれが反映されてしまう恐れもあります。なので、正確に訳そうとしたこと自体は間違いではなかった。ただ、あまりに直訳的だったため、日本語の文章として読みづらく、結果的に肝心の内容も伝わりづらいものになってしまっていました。そんな時に他のプロの方が担当された翻訳書を読んでみると、文章がスッと入ってくるように感じました。日本語としてリズムが良く、それでいて内容を損ねていない。意訳の仕方も適切に感じました。そういう翻訳から学ぶことで、柔軟に考えられるようになっていったと思います。

寺田:学術書だと特に、どこまで意訳していいかを見極める、その塩梅は難しいですよね。本書では哲学的な内容も多く登場しますし、それがベースにもなっていきますが、哲学的な知識はもともとおありだったのでしょうか。

酒井:哲学の知識はほとんどなかったんです。ただ、知識のない分野についての調べ方は、大学院の時に教わったやり方が役立ちました。自分で哲学の分野の本を借りてきたり、論文を検索したりして対応しました。何冊か読んで自分の中に落とし込んでいって、訳注をつけました。

寺田:哲学書ではどんな本が参考になりましたか。

酒井:メルロ=ポンティの『知覚の現象学』『見えるものと見えないもの』などです。本書の末尾に原書の参考文献が挙げてあるのですが、その日本語訳があるものにはほぼすべて当たりました。メルロ=ポンティやジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーの作品です。

寺田:これだけ読み込むのは大変だったんじゃないですか。

酒井:はい!(笑)。学術書なので、日本語を読んでも意味がわからないところがあり、何回か読んだり、照らし合わせたりしました。全部購入するのは大変ですから、息子の絵本を借りに毎週図書館に行くので、その時に自分用の本も一緒に予約をして、分厚い哲学の本をベビーカーに乗せながらガラガラ運んでいました(笑)。

寺田:大学院での勉強を続けているのに近いですよね。「ひとり大学院」という感じがします。

酒井:そうですね。自分の理解の範囲を超えていた場合には、大学院時代の恩師にご相談しなければいけないかもしれないと思っていました。訳注をつけるのがどうしても難しいと感じた箇所がドゥルーズの概念で1箇所あったのですが、その部分は「日本語版で注が必要だと思うのですが、どんな注をつけたらいいですか」と原著者のキム先生にご相談したら、日本語版のために注の原文を書いてくださいました。おかげで大学院時代の恩師には助けを求めずに済みました。恩師にはゲラの時点でお見せして、「内容的におかしいところはないし、大丈夫そうだね」と言っていただけました。今回はそんな次第で監訳はつけなかったのですが、学術書を翻訳する場合には、自分の実力、つまり内容自体を理解する実力と日本語に翻訳する実力と、訳したい内容との間にどれくらい距離があるかをあらかじめわかっておくと、かかる労力を見積もりやすくなるし、監訳をつけてもらったほうがいいのかも早めに判断できるので、自分が苦しまなくて済むと思います。

寺田:学術書の翻訳を手がけたい方には、そのアドバイスをご参考にしていただきたいですね。事前に読んだ時と、実際にやってみた時とではかなり違いましたか。

酒井:はい。事前に読んだ時には、サーッと韓国語で読みました。原書が一般向けに書かれていることもあって、詳しく自分で説明できるところまでではなくとも、理解した気になっていました。気持ちよく読めて、哲学的な内容も具体例があったのでわかったような気になっていたのですが、実際に読んで訳注をつけるために自分の言葉で説明するとなると、読者としての体験とは違ったので、焦りました(笑)。

寺田:そういうものですよね(笑)。

後編では、本書のこだわりや読みどころ、酒井さんの頑張りを支えたものについてお伺いしていきます。どうぞお楽しみに!

※酒井さんの翻訳されたキム・テウ(김태우)著『二つ以上の世界を生きている身体』(한의원의 인류학: 몸-마음-자연을 연결하는 사유 와 치유)に関する情報は柏書房のXをご覧ください。「冒頭試し読み」記事も公開されています。

拙著『古典の効能』の読書会を9月28日(土)に浅草の書店さんで開催いたします。この連載の読者のみなさまともお会いできればうれしいです。

※この連載を書籍化した『翻訳家になるための7つのステップ 知っておきたい「翻訳以外」のこと』が発売中です。電子書籍でもお求めいただけますので、あわせてご活用くださいね。

※出版翻訳に関する個別のご相談はコンサルティングで対応しています。

 

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記事を書いた人

寺田 真理子

日本読書療法学会会長
パーソンセンタードケア研究会講師
日本メンタルヘルス協会公認心理カウンセラー

長崎県出身。幼少時より南米諸国に滞在。東京大学法学部卒業。
多数の外資系企業での通訳を経て、現在は講演、執筆、翻訳活動。
出版翻訳家として認知症ケアの分野を中心に英語の専門書を多数出版するほか、スペイン語では絵本と小説も手がけている。日本読書療法学会を設立し、国際的に活動中。
ブログ:https://ameblo.jp/teradamariko/


『認知症の介護のために知っておきたい大切なこと~パーソンセンタードケア入門』(Bricolage)
『介護職のための実践!パーソンセンタードケア~認知症ケアの参考書』(筒井書房)
『リーダーのためのパーソンセンタードケア~認知症介護のチームづくり』(CLC)
『私の声が聞こえますか』(雲母書房)
『パーソンセンタードケアで考える認知症ケアの倫理』(クリエイツかもがわ)
『認知症を乗り越えて生きる』(クリエイツかもがわ)
『なにか、わたしにできることは?』(西村書店)
『虹色のコーラス』(西村書店)
『ありがとう 愛を!』(中央法規出版)

『うつの世界にさよならする100冊の本』(SBクリエイティブ)
『日日是幸日』(CLC)
『パーソンセンタードケア講座』(CLC)

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