第274回 編集者インタビュー~樋口真理さん(北烏山編集室) 前編
今回の連載では、北烏山編集室の樋口真理さんにお話を伺います。樋口さんは、第262回、第263回の越前敏弥さんのインタビューで話題になった『オリンピア』の編集を担当されました。翻訳家としてのご経験も豊富な樋口さんに、「日本でいちばん翻訳家の気持ちがわかる編集者」のお仕事ぶりを伺いました。
寺田:翻訳家を目指しておられたと伺いました。英米文学科のご卒業ですが、在学中から目指しておられたのでしょうか。
樋口(以下敬称略):大学時代には職業として考えてはいませんでした。最初に目指したのは、就職して2年目の頃です。商社勤務でしたが、当時は女性と男性で仕事が別という時代で、あまり仕事がおもしろくなくて……。何かできないかと思って、翻訳学校に通い始めたんです。1年のコースに申し込んだものの、仕事をしながらでしたし、意識も低く、何回か行っては行かなくなるような状況でした。そんななか、留学の必要性を感じるようになり、会社を辞めて3ヶ月ほど留学しました。留学当初は翻訳家になりたいと思っていたはずが、良い英語の先生に出逢って、教える仕事に目覚めてしまったんです。その先生にとっての英語は、私にとっての国語なわけですよね。私は国語が好きだったので、英語ではなく国語の先生になりたいという思いが芽生えました。そこで免許をとって国語の先生になったんです。
寺田:それでプロフィールに「国語教師」とあったのですね。そこからまた翻訳の道に戻られたのは、どういう経緯だったのでしょう?
樋口:国語の先生をしていた時に、以前に挫折した翻訳学校にもう一度行ってみようと思ったんです。以前はバベル翻訳・外語学院(現在の翻訳学校 バベル)でしたが、この時はユニカレッジという小さな寺子屋式の翻訳学校(現在の日本ユニエージェンシーの翻訳教室やワークショップ)を選びました。20代後半の頃です。どうしても翻訳家になりたいと思いつめて先生を辞めました。文芸翻訳家になることを第一目標に、10年くらいは頑張っていました。学校に通って2~3年目で仕事が来て、絵本でデビューしました。これは、中学校で国語の先生をしていたことが評価されて依頼が来たんです。1年後には単行本『エディスの真実』を出しました。アンネの日記のようなノンフィクションです。仕事は全部学校経由で来ていました。本当は文学やフィクションがやりたかったんですが、ノンフィクションや医学翻訳、コンピューター、電子マネーからポルノまで、色々なものを手がけました。リーディングも数百本やっています。当時は1本あたり2~3万円でしたので、これだけで食べていけないかと考えたりもして……。
翻訳だけでは食べられないので、色々なアルバイトをしていました。30代の後半、学習参考書の編集プロダクションで仕事をしていたんですが、そこを辞めて翻訳書の編集者になろうとしたんです。ちょうどそういうお誘いがあって、それなら翻訳をしながら編集もできると思って会社を辞めたら、その話が流れてしまい……。翻訳でも編集でも、とにかく仕事を探さなくてはと思っていたところに、三省堂に編集者として誘われ、入社しました。正社員でしたので、翻訳と両立するのは無理だと思い、翻訳はきっぱりやめました。入ってから11年間は国語の教科書の編集をしていました。ただ、翻訳をあきらめたという思いはわりと引きずっていたように思います。入社して5、6年目から一般書出版部への異動の希望を出していました。そこだと翻訳書を手がけられるからです。11年目についに希望が通り、異動できることになりました。異動してすぐに日本ユニ・エージェンシーに行って、「翻訳の編集をすることになったので、良い本があったら紹介してほしい」と申し出ました。紹介してもらい、編集者として翻訳書を出すようになりました。戦略的に翻訳家から編集者にキャリアチェンジしたというよりも、翻訳家の道はなし崩し的にあきらめたような感じなんです。
寺田:どうやって翻訳と関わるかは人それぞれだと思います。学校では翻訳一筋の翻訳至上主義があるのかもしれませんが、人それぞれに最適解は違うのではないでしょうか。読者の中にも、どう関わるのがいいのか、模索している方がいらっしゃると思います。翻訳のご経験や翻訳家への思いは、編集者のお仕事にどのように活かされているのでしょうか。翻訳のチェックの仕方にこだわりがあるのか、どんな点に気をつけて翻訳に手を入れておられるのかなど、伺いたいです。
樋口:三省堂ではずっと国語の教科書の編集をしていましたので、翻訳書の編集者としてはペーペーでした。何の強みもないから、自分が翻訳の仕事をしていたことを強みにしようと思って、「日本でいちばん翻訳家の気持ちがわかる編集者」を目指しました(笑)。たとえば、お金のことを早く言ってほしいとか、早く支払いをしてほしいということは、翻訳家からは言いづらいですよね。そんな本音がわかるので、印税率や振り込み予定など、お金のことは早く伝えるようにしていました。ゲラの直しで赤字を入れる際にも、翻訳家の呼吸やリズムを大事にするようにしました。編集の仕事をはじめたばかりの頃は、つい張り切って「リズムが良くないから、この読点は変えたほうがいいと思います」と手を入れてしまいがちですが、私はそういうことはしません。翻訳家自身の文体やリズムを活かすのが編集者の仕事です。表記も、基本的には翻訳家の表記を優先します。表記の統一は、ブレたり、迷ったりしている場合に、手助けするくらいでいいんじゃないかな、と思っています。
寺田:三省堂時代に翻訳家にお仕事を依頼する際には、どのような基準で選んでいらしたのでしょうか。「下手だな」とか「文章の呼吸が合わない」という場合もあるかと思うのですが、どう対応されていましたか。
樋口:お願いする時は、人柄とかはあまり関係なく、とにかくうまい人に頼みたいです。今は自分がよく知っている翻訳家に依頼するので、呼吸が合わないことは、まずありません。持ち込み企画で通ったものなどを担当する時には、呼吸が合わないと感じたこともないことはないですが、論理的に説明できない、感覚的なずれは相手を通します。ただ、「ここに読点があると誤読の可能性がある」という場合は説明して直してもらいます。単に「こなれていないです」という指摘ではなく、主語と述語が一致していないとか、表現が重複しているといった、具体的な指摘をするように注意しています。ベテランの方の場合は、指摘をする際も薄く鉛筆で「?」と書くくらいです。それだけで、すぐに気づいて直してくださいます。
寺田:翻訳家にとっても、心強い存在だと思います。訳文をチェックする際は、原書と一言一句突き合わせてチェックするのでしょうか。
樋口:ものによります。持ち込み原稿などは最初の1章だけ原書と突き合わせて見ることもありますが、基本的には日本語だけていねいにじっくり読んでいきます。「?」となったら、原書に戻ります。原書と突き合わせないといけないのは、かなり問題がある時ですね。あと、抜けがある先生も時々いらっしゃいます。ベテランの先生に意外と抜けがあるんです。上手いのでさらっと読んでしまって気づかないこともあるんですが、「抜けがあるかも」と途中で気づいた場合には、段落数が合っているかだけ、突き合わせて追っていくようにします。
寺田:よく見受けられるミスには、どんなものがありますか。
樋口:わかっていないのに、無理矢理日本語にして意味不明の文章になっているケースですかね。論理の方向がわからずに、なんとなく全体を訳してしまっているんです。作者がその論に対して肯定的は立場なのか否定的な立場なのかを把握しないまま、ぼんやり、フワッと訳してしまっているので、作者が何を言いたいのか伝わってこないんです。ノンフィクションや図鑑・事典など、著者に主張がある時にそれが伝わらないのでは困ります。
寺田:そういう場合は直すのも難しいと思いますが、「これではわからないので……」と言って戻すのでしょうか。それとも樋口さんのほうでたくさん赤を入れるのでしょうか。そうなると、「自分で訳したほうが早い!」と思ってしまいそうですが……。
樋口:緻密に鉛筆を入れて、しっかり対案を出すというタイプの編集者もいます。一緒に北烏山編集室をやっている津田正が、まさにそのタイプですが、私はそこまではやりません。対案は出さずに「少しわかりにくいです」「文脈が読み取りにくいです」と記述して、直してもらう感じです。あくまで翻訳家の文体を活かすこと、そのためのお手伝いをすることを心がけています。
寺田:つい編集の仕事を忘れて翻訳の勉強をしそうになることもあるのでしょうか。
樋口:それはないですね。編集に徹しています。仕事に追われていたというのもありますが……。翻訳に未練があったというお話をしましたが、自分としては編集のほうが向いているのではないかと思います。翻訳家って本当にすごいんですよね。あの粘り強さや文章への細やかな気の遣い方は、自分にはとてもできないな、と。ベテランの先生方とお付き合いをすればするほど、自分には無理だったと思います。代わりに、その方の良さや力をいかに引き出すかに集中しています。目の前の訳文抜きに、自分が原文と向き合いたくなることはまずないです。
寺田:それは、ベテランの方々とのお仕事が多いからというのもあるのでは?
樋口:そうかもしれませんね。ただ、ベテランだからとか新人だからといって、仕事のやり方を変えるわけではありません。同じようにその方の文体を活かすために何ができるか、どういうアドバイスをするとより良くなるのかを考えていますので、「私が訳したい!」とはならないですね。
寺田:国語の先生をされていたとのお話でしたが、相手の力を引き出すことにご関心があるから、そのような姿勢になるのでしょうか。
樋口:というか、自分には無理だったな、と。たまたま引っかかった2行を素晴らしく訳すことはできるかもしれないけれど、先生方は1冊最初から最後まで同じペースで、誤訳もなく抜けもなく、訳してくるわけですよね。すごいな、と思うんです。そういう方たちが、ちょっとうっかりしてしまったり、抜けがあったりした時に助けるのが編集の仕事です。うっかりや抜けはどんなベテラン先生方でもあるので、リマインドする感じですね。だから、教えるというおこがましいことではなく、支えるというか、助けるという感じでしょうか。ただ、加藤洋子さんのご紹介で、6人のお弟子さんたちにひとり1冊、子ども向けの伝記の翻訳をお願いしたことがありました。ほとんど全員がこれが初の翻訳書になるという方たちで、「遠慮なくやって」と加藤さんに言われたので、その時は結構厳しくやりました。それが相手の将来のためだと思ったからです。その1回だけですね。
寺田:ベテランの方々とのお仕事だと不満を抱くことも少ないかと思いますが、二度と頼みたくないのはどんな翻訳家ですか。
樋口:語学は堪能でも日本語力がいまひとつ、という方ですかね。編集の力ではどうにもならないので、あまり頼みたくないかな。遅い人は嫌だという編集者は多いと思いますが、遅くても良い原稿を仕上げてくれるなら、私は待ちます。締切を大幅に過ぎて待っている間は「もう二度と頼まない!」と思うのですが、実際に素晴らしい原稿が届いてしまうと、やはりお願いしたいという気持ちになります。人柄がどうこうということも、わりとどうでもいいかな。上手ければ、すべて帳消しになるというか。
以前に越前敏弥さんが、編集者に気に入られるには表記の統一をきちんとしなさいというお話をインタビューでされていたんですが、私は表記の統一はどうでもいいんです。そこは私たちがやりますから、良い文章を書いてください、と。
寺田:とはいえ、いい雰囲気の訳文なのに表記のミスが多いと、がっかりしませんか。
樋口:たぶん、しないと思います。むしろ、わざとかもしれないと思うんです。明らかな手抜きなら気になりますが、表記が統一されているから評価するということはまずないですね。
寺田:評価する加点ポイントというより、減点されないためにやっておくことかな、と。「この人、下手なのかな」という目で見られてしまうので。
樋口:うーん、それはあるかもしれないですね。
寺田:でも、基本的には救ってあげるんですね?
樋口:国語の教科書の仕事を長くしてきたんですが、教科書って表記の統一をすごく厳密にするんですよ。あんまり一生懸命やりすぎて、嫌になっちゃったのかもしれません。
寺田:文芸の編集者さんには、表記へのこだわりが強いイメージがあるんですが……。
樋口:いや、少なくとも私はないです。むしろ、翻訳家のほうにこだわりがあるはずだと思って読むんですよね。統一なんてとんでもないと考える人もいます。副詞は基本的に開くけれども、次にひらがなが来るから閉じるとか、状況によってブレることがありますよね。たとえば、「ぼくは必ず」という時に、「必ず」をひらがなではなく漢字にしたのは、「ぼく/はかならず」と読まれてしまうのを避けるためということがあります。先生がどうしたいのかを推理して「必ず トジ 意図的?」などと書いたりします。語尾の重複でも「~だ。~だ。~だ」という重複は避けましょうと翻訳学校では習いますが、重複があるのも、リズムをつくるためだったりします。そういう時にも「語尾が重複しています」ではなく、「~だ。の重複、意図的ですね?」と書くようにしています。そうすると、「よくぞ言ってくれた!」という感じに受け止めてもらえたりします。考えすぎってこともよくありますけど。いずれにしても、翻訳家優先で「あなたがどう思っているか」を考えてコミュニケーションをとっています。
寺田:そういう形でコミュニケーションがとれたら、また次も絶対にお仕事をご一緒したくなりますね。
樋口:三省堂は早川書房や東京創元のように翻訳もので知られた会社でもないですし、後発ですから、「あの編集者と仕事がしたい」と思ってもらえるように頑張るしかなかったんですよね。ましていまは無名の極小出版社ですから、「普通だったね」ではダメで、「あの人と仕事をして良かった」というインパクトを残せるようにと思っています。
寺田:当時からそうやってお仕事をしてこられたから、今でもご縁が続いているんですね。
樋口:そうですね。加藤洋子さんとも当時からのお付き合いですし、越前敏弥さんとも何度もお仕事をさせていただいています。
後編では、今後手がけていきたいとお考えの作品や、持ち込みについてお伺いします。どうぞお楽しみに!
※北烏山編集室の最新情報については、ホームページをご参照ください。
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