第270回 感想と自分への評価を切り離す
前回ご紹介した拙訳『なにか、わたしにできることは?』の読書会では、作品に対する肯定的な意見ばかり出たわけではありません。「フォントが嫌い」「引っかかりを覚える」といった意見もありました。以前の私であれば、自分が否定されたかのように感じていたと思います。
でも、私が感じたのは、「そうなんだ。なるほど、おもしろいな」ということでした。「この方はそんなふうに受け取ったんだな」と捉えて、人それぞれにいろいろな受け取り方があることをおもしろがっていたのです。それだけではなく、「言いにくいことを言っていただけてありがたい」とも思いました。
翻訳家がいる目の前だと、作品に対して否定的なことは言いにくいものでしょう。だけど、誰もがそうして気を遣っていては、耳障りのいいことしか届かなくなってしまいます。作品が読者にどう届いているのかを知るためにも、あえて否定的なことを言ってくれる方の存在は大切だと思うのです。
そう捉えられるようになったのは、自分が否定されたように感じるたびに「今自分はこのように捉えているんだな」と気づき、「これはこの人の感想であって、私に対する評価として受け取る必要はない」と、切り離す練習を積み重ねてきたからだと思います。
否定されても傷つかない人を見ると「メンタルが強いんだな」と思って、「自分には無理」と思ってしまうかもしれませんが、たいていは練習して数をこなすことで変わっていくものです。
落ち込んでしまうのは、感想と自分への評価を切り離すことができていないから。そして、そのことに気づけていない場合も多いのではないでしょうか。
かくいう私も、まだまだ気づけていなかったことがあります。入院中の母が「病院の食事がおいしくない」と言うのを、自分への評価のように受け取っていたのです。病院の食事に対する感想にすぎないのに、そこから勝手にこんなふうに自分への評価につなげていました。
「病院の食事がおいしくない」
→「おいしい食事を提供する病院を手配できなかった」
→「リサーチ能力が低い」
→「仕事ができない」
→「ダメな人間」
すると、ダメな人間だと評価されたと思って落ち込みますし、「私だってがんばって対応したのに!」という気持ちが出てきてしまいます。
しかも、もともと問題解決志向の強い人間なので、「病院側に何か言うべきなのか」とか「食が進まない分、足りない栄養素を補給するにはどうするべきか」とか、あれこれ現実的な対応に走ろうとしてしまいます。
だけど考えてみれば、母は何も私に文句を言っていたわけではなく、単に自分の感想を述べただけなんですよね。何か私に具体的な対応をしてほしかったわけでもなく、むしろただ話を聴いてほしかっただけなのです。それを私が勝手に自分への評価として受け取ってしまっていたのでした。
そのことに気づいてからは、「そうだよな。食事くらいしか楽しみがないのに、おいしくなかったら愚痴も言いたくなるよな」と思って話を聴けるようになりました。
まずは自分の思考に気づくこと。そして「感想」と「自分への評価」を切り離すこと。日々の生活の中で練習する機会は多いものですね。
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