第257回 江口寿史の仕事に思う「質と量」
世田谷文学館で開催中の「江口寿史展 ノット・コンプリ―テッド」を見に行って、仕事の質と量について考えさせられました。
文学館は、立ち寄りやすい場所にはありません。それも平日だというのに、来館者が途切れることがないのです。印象的なのは、そのファン層の幅の広さと熱量です。10代から70代と思しき方まで、一人ひとりが実に熱心に作品に見入っていました。あまりの熱量に、鑑賞者の姿を鑑賞してしまうほどでした。
昔からのファンに愛される続ける一方で、新しいファンも常に獲得してきたというのは、並大抵のことではありません。その在り方に憧れを抱くとともに、質の高い仕事をしていれば、時間が経ってもしっかり人に届くことに意を強くしました。
展示された作品を見て感じたのが、「線がきれい!」ということ。記憶にあるマンガのカットが、こんなにきれいな線で描かれていたのかと驚いたのです。私は江口寿史さんをマンガ家さんとして認識していたのですが、子どもの頃には「おしゃれで、自分がこれまで知っていたマンガとは何かが違う」と感じていたものの、仕事の質についてはわかりませんでした。
だけど大人になってから当時の作品の原画を見ると、その質の高さに驚くのです。「マンガの中でイラストを描く」と評されていたそうですが、ちょっとしたカットがイラストレーターの作品として成立していることに感心してしまいます。
江口寿史さんはマンガ家からその後イラストレーターに転身し、多くのファンをつかみます。若い世代のファンには、マンガ家だったことを知らない方も多いそうです。そうやってフィールドを変えながらも自分らしさを発揮しつつ、仕事を続けていたのですね。イラストレーターとしての活躍が、マンガ家として改めて脚光を浴びることにもつながっています。
作品の量にも打たれました。締切を守れないマンガ家というイメージがあったせいか、仕事量が少ないかのように勝手に思い込んでいたのですが、実際には大量の作品を手がけていました。プロの仕事は量に裏打ちされたものなのだという認識を新たにしたのです。
この展示を見たことで、本との関わりについても、自分が望む方向性をはっきりさせることができました。質の高いものをつくって長く読み継がれるのが、やはり理想です。だけど前回の連載「ビジネス書や実用書の場合は?」で書いたような数字重視傾向が強まる出版業界で、どうやってそれを実現していくのか。どう自分なりのプレゼンスをもって出版業界に関わっていくことができるのか……。
「マーケティング的なところでつくっていくと、本の世界というか、言葉の世界が貧しくなる。すなわち人間が貧しくなる」とお話をされていた出版社の方がいました。自分の感じていたことを言語化してくれたと思いました。その出版社では、「よそでつくったこの本が売れているから、うちでもつくろう」という安易なことはやりません。質にこだわった本づくりをされています。
ただ、そうすると経営的に大丈夫なのかと心配してしまいますが、150軒ほどの書店とお付き合いがあり、それで十分にビジネスとして成立しているのだそうです。
自社の本を取り扱ってもらうために、その方は書店に足を運んで担当者と話し合うそうです。すると10軒に1軒は話が通じる書店に出逢えるといいます。ということは、単純に計算して、現在の150軒の書店との関係を築くまでに当たった書店は1500軒……。
質というのは、どこかこうして目に見えない部分で量に支えられているものなのだと感じます。その量をどこでどうこなすかを考えた時、自分にとって負担にならないこなし方があるのでしょう。たとえば、SNSでの発信を増やす方向性もあれば、人と直接話し合う機会を増やす方向性もあるでしょう。翻訳自体を深めるために多くの翻訳書を読むという、内にこもる方向性もあるでしょう。自分に合ったこなし方を見極めることも大切ですね。
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