第232回 それでも教えられること
「はて……私に教えられることが何かあるかしら?」
出版翻訳コンサルティングにご応募いただく方々の資料を拝見すると、毎回そんな思いにとらわれます。どの企画書もしっかりつくりこんであるし、試訳もよく練られています。
「えーっと……これはこのまま持ち込めばいいのでは?」
と思ってしまいます。さらに付加価値を高めるようなことができるだろうかと考え込んでしまうのですが、そんなハイレベルなご相談でも、よくよく検討すると、何かしらアドバイスできることは見つかるものです。
たとえば、会話文を訳すことについて。先日ご相談のあった方は、小説の翻訳に挑戦されていました。試訳には、こんなセリフが登場します。
「君、どうかしてるって」
複雑な関係にある男女間の会話で、男性から女性に向けてのセリフです。これはこれでいいのですが、あらすじを読むと、男性は女性を下に見ていることがうかがえます。そのことを踏まえると、
「お前、頭おかしいだろ」
というほうが、もしかしたら自然なのかもしれません。会話文を訳すということは、そこに話し手たちの関係性やキャラクター、ものの見方や社会的なポジションなどが反映されるということです。
この男性は、女性のことを下に見つつも、自分の社会的なポジションを崩さないために、あえてていねいな語り口を選んで女性と接してきたのかもしれません。そうすることで距離をとってきたのかもしれません。そうであれば、
「君、どうかしてるって」
のほうが正解ということになるでしょう。また、訳文全体のトーンの問題もあります。翻訳ものの雰囲気を保ちつつおしゃれな感じに仕上げたい、という理由で「君」を選ぶこともあるでしょう。何を選ぶにしても、十分に吟味したうえで選ぶことが大切です。
会話文以外にもうひとつアドバイスさせていただいたのは、文章に緩急をつけるということ。この方は試訳として小説のラストの部分を送ってくださいました。そこがいちばんの盛り上がりを見せるシーンだからという理由で、「なるほど、冒頭ではなくラストを送るというのも賢い方法だな」と感心しました。
ここは、それまでずっと思い悩んできた主人公の女性がある決心をするシーンです。その描写がとても爽快なのが、この小説の魅力とのこと。ただ、この部分だけを読んでも、その爽快さがやや伝わりにくいのです。冒頭から読み進めてきたうえでラストのカタルシスがあるので、それは無理もないことでしょう。
そこで、それを伝えやすくするために、冒頭部分は長めの文章で訳し、ラストの部分は短文で畳みかけていくように訳すことで、文章に緩急をつけるのです。もちろん、これは原文をよく読んだうえで判断が必要なことですが、こうしてコントラストをつけることで、「あんなにうじうじ思い悩んでいた主人公が、こんなに力強く決心したんだ!」という盛り上がりと、その爽快さを伝えることができるでしょう。試訳も、ラストだけでなく冒頭部分とあわせて用意して、コントラストを見せるほうがよさそうです。
どんなにハイレベルな企画でも……それでも教えられることというのは、何かしらあるものですね。
※「そんなにハイレベルでないと相談してはいけないのか……」と今回の記事でコンサルティングのハードルを上げてしまったかもしれませんが、「まだここまでしかできていないけれど、ここからどうすれば……」という内容でも大丈夫ですので、ご安心くださいね。私も、「それなら私にもアドバイスできる!」と自信が持てますし(笑)。
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