第177回 出版翻訳家デビューサポート企画レポート⑳
Yさんには、医師という専門家ならではの見落としがありました。専門家だからこそ、「その業界では普通でも一般的になじみがないこと」には気づきにくいものです。
たとえば、試訳の登場人物のセリフにあった、「看護師をコールしたほうがいい」という表現です。「看護師を呼ぶ」「ナースコールをする」なら一般的ですが、「看護師をコールする」は使わないと思うのです。これが医師や医療関係者のセリフならいいのですが、患者の家族側のセリフでしたので、違和感がありました。
こういうことは日常に溶け込んでしまっているだけに気づきにくいので、一般読者を対象にした本の場合は、自分の業界とは無関係な人に試訳を読んでもらうのがいいでしょう。思いもよらない指摘があるはずです。
Yさんには専門家ならではの見落としがある一方で、逆に、専門家ならではの知見を活かしきれていないところもありました。「原文にはこう書いてあって、字義通り捉えるとこうだけど、要はこれを著者は言いたいんだよね」というのが、Yさんにはしっかり把握できていました。それなのに、「字義通り捉えるとこう」というところで翻訳を抑えてしまっていたのです。
「要はこれを著者は言いたいんだよね」という部分は、括弧の中に入れる形で書いてありました。字義通り訳していないと、「原文にはこう書いてないじゃないか」と思われてしまう不安があったのでしょう。括弧の中の部分は、自分の解釈なので、原文からあまりに飛躍してしまうと思ったのではないでしょうか。
だけど読者からしたら、Yさんの解釈こそが、まさに求めている「翻訳」なのです。それを読んでこそ著者の伝えたかったことも理解できるし、翻訳書を読む意義もあるんですよね。
読者の立場になって考えるとわかると思いますが、いくら字義通りに訳してあっても、結局何が言いたいのかわからなかったら、戸惑うだけでよね。「原文通りに訳してくれてありがとう」なんて思わないはずです。
逆に、原文からいくら離れているように見えても、著者の思いやエッセンスを伝えてくれていれば、読んだ意義があったと感じられるはずなのです。だから自分の解釈をしっかりと翻訳として伝えていくことが大切です。
また、Yさんは、「小学校高学年くらいの子どもたちにも理解しやすい作品にしたい」との思いから、「読みやすさを意識した試訳も用意し、二本立てにしたほうがよいのかもしれない」と考えていました。
でも、子どもが読者の場合は、かなりつくりが変わってきますし、持ち込み先も変わります。大人向けの本と児童書では、出版業界の中でもまた別世界になってしまうのです。
ポイントを意識して翻訳に手を入れるだけでもだいぶ読みやすくなりますので、私は二本立てにする必要はないと考えました。原書の特性を考えると、専門的な内容も多いので、大人向けの本がやはり合っています。もし子ども向けに考えるなら、同時進行で試訳を用意するよりも、まず大人向けの本を出してから、それを基に別物としてつくるほうがいいでしょう。つくり方自体が違うので、訳文を変えるだけでは難しいからです。
Yさんにはそうお伝えして、フィードバックを基に試訳を修正していただくことにしました。すると……次回に続きます!
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