TRANSLATION

第132回 どこまで読み込む? どこまで伝える?

寺田 真理子

あなたを出版翻訳家にする7つの魔法

「なるほど、そういう読み方ができるのか。考えたことがなかったなあ」

新しい解釈を知ることで、過去に読んだ本の印象が大きく変わってくるのを感じました。それは、堀辰雄の『風立ちぬ』についての解釈です。この作品には、次のような文章が出てきます。

“それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木陰に身を横たえていたものだった。”

“そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木に寝そべって果物を齧じっていた。”

この文章を読んで、どんな印象を受けるでしょうか。私は「翻訳ものっぽいな」と感じました。「それらの」「その」「そんな」「それ」という言葉が多用されていることから、翻訳ものという印象を受けたのでしょう。海外文学の香りを醸し出すことを意図して書かれたか、あるいはこの時代の文学の特徴なのだろうと捉えていました。

ところが、『名作をいじる』の解釈によれば、これらの言葉を多用したのは、読者を蚊帳の外に置こうとする試みだというのです。これらの言葉は、語り手の場所が起点になっています。たとえば、実際に語り手が目の前にいて、「その本をとって」と言われれば、どの本のことか、こちらにも伝わります。だけど、どこにいるのかもわからないまま、いきなり「その本」と言われても、どれを指しているのかわからず、置いてけぼりにされてしまいます。この疎外感をあえて読者に抱かせるのが作者の狙いなのです。読者を蚊帳の外に置くことによって、主人公と恋人の関係を蚊帳の中に置く。つまり、ふたりだけの世界を作り、「それらの」「その」「そんな」「それ」という言葉で杭を打つように囲い込んでいるというのです。

こういう読み方ができるのかと興味を惹かれるとともに、もしこれが英語の原文だったら、この読み方に基づいて訳すのは難しいだろうなと思いました。堀辰雄の文章のように訳したら、「それら」「その」「そんな」「それ」は編集者さんに指摘され、削除して修正するように求められるでしょう。仮に意図を説明して、あえてこのように訳すことに編集者さんの理解を得て出版できたとしても、それをどれだけの読者が理解してくれるでしょうか。

実験的な文体に挑戦することで知られている著者だったり、熱心な読者がついていたりすれば、詳しく読み込んでもらえるので、翻訳の意図も理解してもらえるかもしれません。そうでなければ、単に翻訳が読みづらいと思われるか、下手な翻訳だといって片づけられてしまうのではないでしょうか。むしろ、そういうケースが大半でしょう。意図を汲んでくれる読者は10人に1人どころか、100人に1人くらいになってしまいかねません。そうなると、いくら読み込んで理解できたとしても、解釈通りに翻訳するわけにはいかなくなります。

もちろん、読者をなめてはいけないですし、ときには、原書をいちばん深く読み込んでいるはずの翻訳家以上に、読者のほうが深く読み込んでいることもあります。だけどそれはやはり、読む経験を自分なりに積み重ねてきた読者だからこそできることです。すべての読者にそのレベルの読解を求めるのは難しいのではないかと思います。だから、自分が投げた球を読者が受け取ってくれることを信頼しつつも、なるべく取りやすいような球を投げる。そんな調整が必要になってきます。

どこまで読み込むか、そして読み込んだことをどこまで伝えるか。読者のことを思いながら、作品ごとに調整しながら取り組んでいくことが大切なのではないでしょうか。

※新刊『心と体がラクになる読書セラピー』が発売中です。日経WOMAN8月号の読書セラピーのご紹介記事も合わせてご覧いただけたらうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。

※この連載を書籍化した『翻訳家になるための7つのステップ 知っておきたい「翻訳以外」のこと』が発売中です。電子書籍でもお求めいただけますので、あわせてご活用くださいね。

Written by

記事を書いた人

寺田 真理子

日本読書療法学会会長
パーソンセンタードケア研究会講師
日本メンタルヘルス協会公認心理カウンセラー

長崎県出身。幼少時より南米諸国に滞在。東京大学法学部卒業。
多数の外資系企業での通訳を経て、現在は講演、執筆、翻訳活動。
出版翻訳家として認知症ケアの分野を中心に英語の専門書を多数出版するほか、スペイン語では絵本と小説も手がけている。日本読書療法学会を設立し、国際的に活動中。
ブログ:https://ameblo.jp/teradamariko/


『認知症の介護のために知っておきたい大切なこと~パーソンセンタードケア入門』(Bricolage)
『介護職のための実践!パーソンセンタードケア~認知症ケアの参考書』(筒井書房)
『リーダーのためのパーソンセンタードケア~認知症介護のチームづくり』(CLC)
『私の声が聞こえますか』(雲母書房)
『パーソンセンタードケアで考える認知症ケアの倫理』(クリエイツかもがわ)
『認知症を乗り越えて生きる』(クリエイツかもがわ)
『なにか、わたしにできることは?』(西村書店)
『虹色のコーラス』(西村書店)
『ありがとう 愛を!』(中央法規出版)

『うつの世界にさよならする100冊の本』(SBクリエイティブ)
『日日是幸日』(CLC)
『パーソンセンタードケア講座』(CLC)

END