第116回 時代による言葉の変化と翻訳
言葉は時代とともに変わっていきます。長年読み継がれてきた翻訳作品の新訳が刊行されるのも、旧訳が間違っていたからではなく、時代に合わなくなり、読みづらい部分がどうしても出てくるからです。
昔の翻訳では、それこそ「トム」を「太郎」にしてしまうなど、相当ダイナミックなことをしていました。逆に考えれば、そこまでしなければ読者に受け容れてもらえない時代だったのでしょう。
現代の翻訳ではさすがにそこまではしませんが、名前の表記ひとつとっても、原音主義が主流になるという変化がありました。私も『認知症を乗り越えて生きる』の翻訳のときに、著者名をそれまで使われていた「スワッファー」にするか、それとも「スワファー」にするかが問題になり、やはり原音主義に則って「スワファー」にしたことがあります。
先日、1970年代のマンガを読んでいて、服装や小道具などもさることながら、何より言葉遣いに衝撃を受けました。
「まあ ここ? うちのすぐ近くだわ」「じゃ よってらっしゃいな」
「お高くとまってるんだわ」
「あたしになにができて?」
そんなセリフを女子高生が口にしているのです。お嬢さま学校ではなく、ごく普通の高校という設定です。もちろん、「~だわ」「~よね」など、実際に使わないけれど読む分には違和感がない言葉遣いはありますし、マンガのセリフにも実際の言葉遣いとの乖離はあるでしょう。それを差し引いても、現在とはかなり違っていたんだなと感じます。
差別用語も、昔に比べてずいぶんと減ってきました。たとえば、私が専門にしている認知症も、昔は痴呆症と呼ばれていました。いまから考えるとひどい名称だと思いますが、当時はそういう認識がなかったのでしょう。
ここ数年はジェンダーの問題について、かなり意識が高まってきました。以前なら「そういうものだから」と受け止められてきたことに対して、「それはおかしいのでは?」と声を上げる方が増えてきた結果、表現も変わってきました。たとえば「男らしい」「女らしい」という表現は、もともとはほめ言葉でしたが、いまでは不快感を覚える方も増えています。今後は使われる場面も減ってくるのではないでしょうか。
翻訳をする際の言葉選びでも、こういう時代の変化を意識しておくことが大切です。関心を持つようにしていないと、悪気はなくても、無神経な表現をしてしまうからです。
ただ、表現に配慮するあまり、言葉狩りのようになってしまう懸念もあります。あれもダメ、これもダメ、となると表現が委縮しますし、その背後にある思想も委縮してしまいます。
「子どもの頃に読んだ本を大人になって買ったら、いまでは不適切とされる表現がすべて変更され、別物になっていて悲しかった。元のまま残しておいてほしかった」という記事を目にして、考えさせられました。言葉を使わなくなることで、豊かさが失われてしまうのも事実です。それに、「不適切な」表現が持つ、言葉としての独特の味わい深さもたしかにあるのです。
また、小説の翻訳など、登場人物の不寛容さや差別意識を表すために、あえて差別的な表現を使うこともあるでしょう。自分では使わないにしても、ストックとして持っておくことは求められます。
時代とともに移り変わる価値観を捉えて言葉選びに反映させつつ、表現の豊かさも失わない……。両立が難しいものではありますが、心がけていきたいですね。
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