第115回 「実績」の正体
出版翻訳家を目指す方の大きな悩みは、実績がないことでしょう。「実績の壁」に突き当たってしまうのですね。その場合にどうやって実績をつくっていくかについては、第19回の「7つの魔法⑥~実績をつくる」でお伝えしています。
私は最近、実績があるからという理由で各種のご依頼をいただくようになり、あらためて「実績ってなんだろう?」と考えるようになりました。そこでわかったのは、「実績って、迷惑をかけないっていう安心感なんだな」ということです。
本ができるまでのプロセスは、本当に気の長い道のりです。翻訳書の場合であれば、まずは翻訳を仕上げるだけでも大変なことですが、それを編集者さんにお渡しした後、相当な修正が入ることもあります。ときにはもう一冊訳すのに等しい手間暇がかかることもあります。それを乗り越えて無事入稿できても、初校で大きく変更があったり、再校まできてもまた修正があったり……。一つひとつが集中力を要するプロセスなので、いつどこで「もう嫌だ!」と投げ出してしまってもおかしくないわけです。
第96回の「出版翻訳家インタビュー~大森望さん 前編」でもあったように、中には、途中からメールに返信がなくなって、連絡がつかなくなる人もいます。そうすると、編集者さんにそのしわ寄せが行ってしまいます。場合によってはまた別の翻訳家を探してこなければいけないでしょう。それだけではありません。本づくりには編集者さんのほか、校正、外部校正、装幀、営業などなど、出版社の内外の多くの方々が関わっています。その全員にご迷惑をおかけすることになってしまいます。そして、いなくなった翻訳家の代わりに、編集者さんが各方面にお詫びをしなければいけないのです……。
実績があるということは、「これまで大きな迷惑をかけてこなかった」という証明だと思うのです。何作も出していれば、「もしかしたら多少遅れることはあったかもしれないけど、全部きちんと形にしてきたんだな」と思ってもらえるのですね。また、ものすごく偏屈だったりこだわりが強すぎたりしてコミュニケーションがとれなければ次の依頼も来ないでしょうから、「ちゃんとコミュニケーションがとれる人なんだろう」とも思ってもらえるのです。
逆に、実績がないということは、「とんだ大迷惑をこうむるかもしれない」のですから、編集者さんの立場になってみれば、たしかにギャンブルですよね。おまけに、コミュニケーションがとれるかどうかもわからないわけですから、躊躇するのも無理はありません。
でも、それなら「迷惑をかけない」「コミュニケーションがとれる」ことを示せれば、編集者さんの不安感を払拭できるわけです。
たとえば、「そもそもちゃんと翻訳を仕上げられるんだろうか」と思われているのですから、あらかじめ一冊丸ごと翻訳してあれば、これはクリアできますよね。もちろん、質を確保してのことですし、編集方針によっては全部訳し直す可能性もあるので翻訳家にとっては負担が大きいのですが……。第112回の「試訳を用意するときに大切なこと」でお伝えしたように、別のパターンでも用意して、「こういうふうにも翻訳できます」と示すことも安心材料になるでしょう。
また、初校や再校のプロセスもある程度把握しておくといいでしょう。「何もわからないので教えてください」というスタンスではなく、「少しでもご負担にならないようにします」というスタンスで臨むことです。
他の分野での実績も安心材料になります。ひとつの会社に長年勤めたなど、「腰を据えて何かを成し遂げることができた」と示せれば、「この翻訳を任せてもきちんと最後までやってくれるだろう」と思ってもらえるでしょう。
コミュニケーションに関しては、社会人としての真っ当さを備えていると示すことです。きちんと一つひとつの連絡に対応することや、時間などの約束を守ること。しっかり相手の話を聴くこと。基本的な事柄をおろそかにしないようにしましょう。
実績がないことが編集者さんにとってどういう意味を持つのかを理解したうえで対応すれば、実績の壁も乗り越えていけるでしょう。
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