第109回 ジャンルの壁
日経新聞の「私の履歴書」欄に、ホリプロ創業者の堀威夫さんが連載をされています。その第1回に、興味深いエピソードがありました。
“1989年2月に東京店頭市場に株式公開したとき、芸能ジャーナリズムは大騒ぎした。ところが日本経済新聞の朝刊を開けば、ささやかな記事だけ。”
ホリプロが株式公開する、となると芸能関係者から見ればビッグニュースです。だけど同じ事実が、経済面から見ればたいしたニュース価値がないと判断されてしまうのです。いわばジャンルの壁があるのですね。
この連載でも、第6回の「7つの魔法①~分野を絞る」で、分野を絞ることの大切さをお伝えしています。自己啓発の分野のベストセラー作家を文芸の編集者さんがまったく知らなかったり、逆に、文芸の分野では大注目の小説家を実用書の編集者さんは聞いたこともなかったりする、と第54回の「出版業界は、ひとつ?」で取り上げたように、ジャンルが違うと、同じ出版業界でもまったくお互いのことを知らないものなのです。
先日も、ある翻訳家の方が、「翻訳家も児童文学とかミステリとかSFとか、それぞれに分かれちゃってて、交流もないんだよね」というお話をされていました。それぞれに独立した世界になっているのです。
出版業界のこのジャンルの壁や一つひとつの世界の狭さは残念に思うこともありますが、狭いからこそチャンスもあるのです。だって、すべてを網羅しようと思ったら、とてつもなく大変でしょう? 純文学も児童文学もミステリもSFも学術書も、すべての翻訳を手がけようとしたら、何から手をつければいいのかすらわかりません。
でも、どれかひとつなら、やることも見えてきますよね。たとえばミステリなら、名作といわれているものをひと通り読んでみる。海外の主なミステリの賞の受賞作やノミネート作をチェックする。人気のミステリ作家のなかで何人か好みに合う方を探してこれまでの作品をすべて読んでみる。国内のミステリ作品の売上トップ10の作品を全部読んでプロットや文体を分析してみる。その情報を基に国内の読者に好まれそうな原書や、まだ日本の作品にない魅力を持つ原書を探すとともに翻訳のテイストに活かしてみる、などなど……。
世界が狭いからこそ、やるべきことをやりさえすれば、その世界の中で認知もされやすいのです。そして、逆説的なようですが、狭いところを掘っていくと広い世界に通じるように、狭いところを極めていくことでジャンルの壁も超えやすくなります。特定のジャンルでの作品数が増えてくると、読者の方にも「この翻訳家の名前はよく見かけるな」と認知してもらえますし、編集者さんにも「この翻訳家にこういう作品も頼めるかもしれない」と思ってもらえます。また、たとえばミステリ作家が初の絵本作品を出版するなど、翻訳を手がけていた著者が他のジャンルに進出することをきっかけに、壁を越えることもあるでしょう。
完全に自由な状態よりも、制約があるからこそ知恵や工夫が生まれるように、一見不自由なジャンルの壁があるからこそ、翻訳家も自分の素質を見極めて励むことができるのかもしれません。
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