第103回 出版翻訳家インタビュー~宮崎伸治さん 前編
今回の連載では、今話題の『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』の著者である宮崎伸治さんからお話を伺います。宮崎さんはベストセラー『7つの習慣 最優先事項』をはじめデール・カーネギーの『人生を変える黄金のスピーチ』など多数の翻訳書を出版され、著訳書は60冊に上ります。出版界の天国と地獄を見て業界から足を洗ったという宮崎さんに、出版翻訳家が身を守るためにできることを伺いました。
寺田:本日はよろしくお願いいたします。『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』は、『交通指導員ヨレヨレ日記』『派遣添乗員ヘトヘト日記』『マンション管理人オロオロ日記』『メーター検針員テゲテゲ日記』のシリーズから出ていることに驚きました。このシリーズは新聞広告でよく見かけて、ヒットシリーズとして注目していたんです。だけどこれまでは交通誘導員やメーター検針員のように、いわば低賃金重労働が予想されるお仕事を取り上げていましたよね。出版翻訳家は憧れの知的職業と捉えている方が多いかと思うのですが……。
宮崎(以下敬称略):今回の本は、このシリーズの番外編だと聞きました。これまでは、なりたくてなった職業というよりもならざるを得なかった職業が扱われていたのですが、出版翻訳家の場合は、ぜひなりたい夢の職業なので例外的ですね。
寺田:そういう扱いだったんですね。この連載をしている私としては、あのシリーズで、しかもあのタイトルで出版されていることを知った時には「何たる営業妨害!」と思ったのですが(笑)、実際に拝読して、これは翻訳家志望の方々にもぜひ知っておいていただけけたらと思い、インタビューをお願いした次第です。拙著『翻訳家になるための7つのステップ』では、出版契約書がなくても口約束が「反故にされることはまずありません」とお伝えしているのですが、『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』を拝読して、こうして反故にされてしまうケースもあるのかと驚きました。
宮崎:約束が反故にされてしまうことは少ないです。9割近くはちゃんと出版されます。問題が生じるのは1割程度ですね。
寺田:翻訳家が臆することなく出版契約書を求めることを提唱しておられますが、初めての翻訳書の場合、出版契約書について知らない方も多いでしょう。また、知っていても、新人の立場で自分から要求することをためらう気持ちも強いかと思います。どうすれば関係性を損なうことなく出版契約書を要求できるとお考えですか。
宮崎:私自身も、出版契約書を求めて嫌な顔をされたことは何度もあります。「お互い信頼関係でやっていきましょうや」とか「うちにはそんな翻訳家はいません」とか「悪いようにはしませんから」とか「まだ発行部数や定価が決まってないので出版直前まで待ってください」とかと言って、なかなか出してもらえませんでした。
こういう場合は、覚え書きでもいいので出してもらうといいでしょう。「覚え書き」というタイトルがなくても、印税率、おおまかな出版部数や定価などの条件を書いたメールでも「覚え書き」の代わりになりますので、メールで「印税率、おおまかな出版部数、定価をお教えください」と質問しておけばいいのです。それなら教えてくれるところも多いと思います。その際、出版することが正式に決まっているのか否かも確認しておくといいでしょう。
「覚え書き」すら出してもらわずに、後に問題になった場合は、翻訳家にも落ち度があったと言わざるを得ません。万が一、出版が中止にされた場合、弁護士に相談に乗ってもらおうとしても、口約束だけだったら「どうして書面にしてもらわなかったの?」と言われるのがオチです。そうなると身を守る手段がなくなってしまうんですね。
寺田:出版契約書を求めるのはハードルが高いですが、メールで「印税率、出版部数、定価」の3点セットをお尋ねするのであれば、だいぶハードルが下がりますね。出版契約書が当たり前のものとして整備されることを含め、出版業界全体の慣行を変えていくことも求められているかと思います。翻訳家の場合、一人ひとりが独立しているために横のつながりが持ちにくいものです。健全な業界にしていくために、これから参入していく一人ひとりの翻訳家に求められるのはどんなことでしょうか。
宮崎:出版社と翻訳家では、立場が違います。仕事を与える側である出版社のほうが立場が強いので、優越的な地位を乱用するケースが多々あります。
印税をカットしたり、印税の支払日を遅らせたり、出版を勝手に中止したり、リーディングをタダでやるようにし向けたりすることは、優越的地位の乱用ともいえることです。翻訳書として出版することをちらつかせてリーディングをさせた挙句、出版されなければタダ働きになってしまいます。30時間から、厚手の本であれば100時間近くが無駄になってしまうわけです。このようなことをされて安易に承諾していると、出版社もそれが「当たり前」だと思うようになります。納得できない場合は、泣き寝入りするのではなく、きちんと自己主張するようにしましょう。それが健全な業界にする一歩です。
怒りには「正当な怒り」と「不当な怒り」があります。「正当な怒り」を押さえ込むことは美徳ではなく、業界を不健全にする原因になります。逆に「正当な怒り」を表明することは業界の改善につながります。
寺田:業界の基準がわからないために、どこまで許容すればよいのかわからないという方も多いと思います。
宮崎:見極める基準は、約束したかどうかということです。たとえばリーディングも「無料でやってもいい」という人はそれでいいのです。自分が原書に惚れ込んでいて、自発的にやるのならいいのです。だけれども、出版社が支払いを約束した場合に、合理的な理由なく自己都合だけでそれを反故にされたら、それを許しておいてはいけません。
寺田:『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記』では、「簡単に印税の引き下げを了承していたら、出版社側に『都合が悪くなったら翻訳家の印税をカットすればいい』ということを“学習”させることになってしまう。だから簡単に了承などしてはいけない」とありました。目の前の仕事のことだけを考えると、相手が困っていたら、全体のために自分が損な役回りを引き受けようと思ってしまいますが、やはり翻訳家全体の利益を守るというスタンスが一人ひとりに求められるのでしょうか。
宮崎:契約自由の原則というものがあります。公序良俗に反するものではければ、当事者同士が合意すればどんな契約でも自由に結べるというのがこの原則です。
ですから「相手が困っていたら、全体のために自分が損な役回りを引き受けようと思ってしまう」のであれば、自分の納得のいく形で契約を結ぶのは本人の自由です。たとえば、出版社の台所事情が苦しければ、自ら印税率を下げて交渉してみるのも悪いことではありません。自分は自分、他人は他人。自分が損な役回りを引き受けてもいいと思うのなら、そうすればいいのであって、他人がとやかく言う権利はありません。
ただし、優越的地位の乱用ともいえること、たとえば、いったん合意した内容を後になってひっくり返されるといったことを簡単に許していたら、「約束したことでも破ってもよい」と出版社に学習させることになる。しかし、それでは社会は成り立たなくなる。だからそんなことは簡単に許してはならないのです。
寺田:「仕事を引き受けるときに欲望に惑わされてはならない」と説いていらっしゃいます。好条件に惑わされて、依頼してきた社長の尋常ではない雰囲気を察知していたにもかかわらず、仕事を引き受けてしまって大変な思いをしたご経験からのお話でした。同様に、デビュー作の場合など、「早く自分の名前の載った本を出したい」という気持ちが強いと、冷静な判断ができなくなることもあるかと思います。信頼できる出版社かどうか見極めるために、どんな点を見ていけばよいのでしょうか。
宮崎:翻訳家が質問したいことを根ほり葉ほり訊いた時に、それを嫌がる出版社はやめておいたほうがいいでしょう。印税、支払時期、出版することは正式に決まっているのか否か、解説者や監訳者をつけるか否か、出版時期はいつ頃になるのかなどを訊いて、返答を嫌がるような出版社ならば近づかないほうがいいでしょう。「早く自分の名前の載った本を出したい」という気持ちが強いとなかなか踏み込んだ質問をしにくくなりますが、質問をせずに後で出版社にいいようにされたら、その責任の一部は自分にもあることを自覚しておかなければなりません。
財務諸表が読める人であれば、出版社の経営状態がどうなっているかまで調べてみるという手もあると思います。ただ、私もそこまでやったことはありません。時間的にも労力的にも余裕のある方であれば、「ビジネス会計検定試験」の受験を視野に財務諸表の読み方を勉強してみるのもいいでしょう。
寺田:仕事に取りかかる前に出版が中止にされそうな内容の本ではないか吟味することを勧めていらっしゃいますが、どんな点がポイントになるのでしょうか。
宮崎:私は最後まで翻訳したものが出版中止になったことが3回、出版中止の相談をされたことが4回あります。その経験からリスクがあると考えたほういいものには、3種類あることがわかりました。1番目は、明らかに「二番煎じ」をねらった訳書。訳書の場合、ベストセラーになった本に似せて作るということは不可能です。タイトルが似ているとか、扱っているものが同じというだけで決めている場合、あとで「思っていたのと違っていた」と言われかねません。これは、編集者が英語が読めないので、内容を知らずに出版しようとするから起きるケースです。
寺田:読めないんですか? 翻訳書の編集者さんは、大半はご本人も英語が読めると思っていたのですが。
宮崎:もともと翻訳書の担当になりたいと思っていた編集者なら違うかもしれませんが、入社後にたまたま翻訳書の担当になった編集者のほとんどは英語が読めません。私が関わった30名ほどの編集者のうち、英語が読めるのは1人だけでした。ひどいケースでは目次すら読めないんです。
寺田:それは驚きました。そうすると内容を把握していないから、「あの本が売れているからこれもいけそうだ」と判断してしまうのでしょうね。2番目はどのようなものでしょう?
宮崎:2番目は他の何かに依存している作品です。たとえば映画の公開が予定されていて、その宣伝効果を期待して出すとか。以前、リンカーンの生誕200年を記念して映画が公開されるということで、リンカーンの伝記の翻訳を打診されたことがあります。そういう場合には、公開が遅れたり公開が中止になったりしても出すのか、確認する必要があります。また、著名人を解説者につけることになっていて、その解説者がかなり高齢だとします。翻訳を進めている最中にその方が解説を書けない状況になった場合、それでも出すのか、確認しないといけません。
寺田:映画や記念の年などに関連する作品は、売りやすいですし、企画も多いですが、たしかに不確定要素があるので、確認しておかないといけませんね。
宮崎:そうですね。そして3番目は著作権法上、問題がありそうなもの。原著者と出版社が衝突したら出版中止にされかねないし、著作権が切れていないのに切れたと思いこんでいる場合もあります。この3種類については、根ほり葉ほり訊いておくことです。
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