第96回 出版翻訳家インタビュー~大森望さん 前編
今回の連載では、SF翻訳家の大森望さんからお話を伺います。大森さんは現在全世界で2900万部という中国初の驚異的大ヒット作『三体』三部作をはじめ『息吹』『すばらしい新世界』『ブラックアウト』など多数の翻訳書を出版されています。『21世紀SF1000』『新編 SF翻訳講座』の著作もあり、アンソロジスト、書評家としても活躍されるほか、「ゲンロン大森望SF創作講座」主任講師としてSF作家の育成もされています。
寺田:本日はよろしくお願いします。大森さんは翻訳家になる前は編集者をされていたんですよね。
大森(以下敬称略):新潮文庫編集部にいました。翻訳書も担当したので、もともと新潮文庫とお付き合いのあったベテラン翻訳家を引き継いだほか、それまで新潮文庫とは縁のなかったSF系の翻訳家を担当しました。伊藤典夫さんや白石朗さん、山田順子さん、『ニューロマンサー』がベストセラーになった故・黒丸尚さんなど、担当編集者として多くの翻訳家に接する機会がありました。
寺田:当時からすでに将来は翻訳家になることを見据えていらしたそうですが、編集者の立場から翻訳家の仕事ぶりを見て、見習いたいと思った点や、逆に反面教師にしてきた点など、伺えればと思います。
大森:翻訳家にも色々なタイプがいて、納期には遅れるけれども原稿が素晴らしい人もいれば、そそっかしいミスはあるけれども指摘されればちゃんと直す人もいます。編集者にとっての理想は、締切を守ることと、訳文に修正すべき点が少ないことでしょうか。理想的な翻訳家として名前を挙げるとしたら、亡くなった浅倉久志さんです。浅倉さんは、締切より前に、いつの間にか仕事が終わっているんですよ。そして、編集者や校正者からの意見を取り入れながら、さらに良くしてくれる。編集者は提案や試訳をゲラに鉛筆書きで入れます。それをそのまま採用する人もいれば、意地でも採用しない人もいる。浅倉さんの場合は、誰かがちょっとでもわかりにくいと言えば、必ず直すんです。編集者から見たらそのままで十分わかるし、直さなくてもいいと思う場合でも、校正者から鉛筆が入ったら、しっかり直すんです。
寺田:読者目線を徹底されていたんですね。
大森:自分が翻訳家になって、鉛筆書きの提案をもらうと、ちょっとムッとすることもあるんです。「これでわかるのに、なんで?元のほうがいいじゃん」と思ったりして(笑)。そういうときにはなるべく「聖者アサクラ」の気分になって考えるようにしています。「読みにくいと思った人がいるんだから……」と。
寺田:読み手がどこまで読み込めているかによっても、指摘が変わってくるように思います。
大森:そうですね。最近は社外の校正者との仕事が増えてきました。以前は、編集者も校正者も社内のベテランチームで担当するパターンが多かったのですが、いまはSFに慣れていない社外校正者に外注されるケースもあって、そうするととんちんかんな鉛筆が入ることもあります。でも、そういう指摘は、SFを読まない人はこんなふうに誤解するのか、というサンプルとしてむしろ大いに参考にすべきかな、と。
寺田:翻訳家は編集者や校正者の指摘に育ててもらう部分が大きいと思うのですが、それに頼れない状況になってくるのですね。
大森:ベテランになるほど編集者や校正者からの指摘も減ってきます。ルビや表記揺れ以外は鉛筆の指摘がない、真っ白なゲラが届いてしまうこともある。素晴らしいから直しようがないのかというとたぶんそうでもなくて、細かく見なくても大丈夫と思われてスルーされている、いわばキャリアでバイアスがかかっているのかもしれない。だとしたら、訳者の責任で品質管理をしなきゃいけない。
寺田:そうなると、一言一句細かくチェックするような若手編集者に担当してもらうほうがよいのでしょうか。
大森:そうですね。まあ、実際そうやってたくさん鉛筆が入っているのを見ると一瞬ムッとしたりするわけですが(笑)。どちらかといえば、鉛筆チェックは多いほどいいですね。ベテランの中には、それをされるとものすごく怒ってしまう人もいて、それが理由で仕事を降りてしまったケースもあるとか。
寺田:鉛筆書きは私にとってはすごくありがたいのですが、怒ってしまう方もいるのですね。
大森:失礼だとか、押しつけがましいとか感じるのでしょうね。明らかに間違っていても、断固直さない人もいます。ゲラで指摘しても無視する。その場合、編集者としてはそれ以上仕方がないですね。結局はその人の名前で出るわけですから。
寺田:間違っていても直さないというのには驚きます。そういう方には次に頼むことはないと思いますが、他にも編集者にとって頼みたくない翻訳家の特徴はありますか。
大森:そういう頑固すぎる人は困りますが、いちばん頼みたくないのは文章のリズムが合わない人。明らかな誤訳はなくても、表現がくどかったり、文章のつながりが不自然だったりすると、読んでいてストレスが溜まる。鉛筆書きで修正案を入れはじめるとキリがなくなって、双方にとって不幸です。
あと、締切を守らない人も問題ですが、編集者にとっていちばん困るのは、見通しが立たないことなんです。翻訳をしていれば、自分のペースやこなせる分量がおのずとわかりますよね。長編だったら、締切に間に合うか間に合わないかが、数ヵ月前にはわかるはずなんです。だから、その段階で、「2ヵ月延ばしてもらえればできます」とか、スケジュールを申告してほしい。刊行スケジュールが公表されてから動かすのは社内的にも対応が大変なので、もっと早い段階で伝えてほしい。「できます、できます」と言ってできないのが何より困るんですね。
寺田:編集者さんをはじめ、他の方たちにしわ寄せが行きますものね。
大森:途中からメールに返信がなくなって、連絡がつかなくなる人とか。中には、原稿を直接取りに行かないと渡してもらえない翻訳家もいまだにいます。編集者が取りに行くと、できた分だけ渡してくれるんです。昔だと、それこそ一回に400字とか。
寺田:400字ですか……(笑)
大森:さすがにいまはそんな翻訳家は少ないでしょうが、ぼくが編集者のころは何人かいました。実際は、効率よく仕事をする翻訳家ほど、人と会わなくなりますね。最近はゲラも印刷せずにデータで送ってタブレットなどで訳者校正を入れることが増えていますし。かといってリモート打ち合わせに移行しているわけでもないので、編集者とのやりとりはメールだけだったり。
寺田:会う機会がないと、話の中で持ち込み企画に触れる機会もなくなってしまいますよね。『新編 SF翻訳講座』では「持ち込み仕事と請負仕事は半々くらい」とありましたが、現在の比率はどれくらいですか。
大森:『三体』の3部作の仕事で3年分の予定が詰まってしまい、その後も『三体』の著者である劉慈欣の長編が2冊入っているんです。邦訳の冊数でいえば、実質的に7、8冊分あって、5年分くらいの予定が埋まってしまっています。なので、いまはこちらから新しい企画を持ち込む時間的な余裕がないというのが実情です。暇ができたらやろうと、なんとなく準備していた企画はいくつかあったんですが。
寺田:それはすごいですね。大森さんは目利きとしての立場を確立していらっしゃるので、持ち込み企画でもほぼ採用されるでしょうが、持ち込み企画を通すためのヒントがあれば教えてください。
大森:実績があまりない状態で企画を通すために必要なのは、やっぱり説得力と熱意ですね。編集者時代にはたくさん企画書を通してきましたが、その際には、「なぜこの本を出す必要があるのか」を訴えていました。今までにないタイプだとか、類書が売れているとか、初の作品だけどこの系列には固定読者がいるから売れ行きが見込めるはずだとか、今までにまったくない斬新な作品だから冒険的だけどやる価値がある、とか。ある程度データを揃えたあとは、ぜひやりたいという熱意ですね。結局、その本を出す、出さないの判断は、誰か熱心な人、強く推す人がいて、それに乗っかるか乗っからないかだと思うんです。その誰かというのが、翻訳家であったり、編集者であったり、エージェントであったりする。たとえば、竹書房文庫は、以前はほとんど翻訳SFを手がけていなかったのが、すごく熱心な編集者が担当しはじめてからSFがどんどん出るようになった。ひとりでも熱心な人がいると出しやすくなりますね。
寺田:物事を動かしていくには、やはり熱意が大事ですよね。それでも、昔に比べて出版不況によって持ち込み企画は難しくなってきた印象があります。
大森:いえ、昔と違って部数のハードルが下がったので、むしろ出しやすくなっていると思いますよ。ぼくが新潮社に入社したころ、新潮文庫の最低初版部数は5万部とかだったんですが、いまはたいていの文庫レーベルが初版1万部以下でも出せる。多品種少量生産の傾向がますます強まって、少人数でも固定読者がいるようなタイトルは翻訳が出しやすくなった。印刷や製本の技術的な問題から、以前は小ロット生産が割高でしたが、いまはコストが下がってきました。その結果、最初の本を出すハードルが下がったと思います。「自分の名前で本を出したい」と翻訳家を目指す人にとっては、出しやすい時代だと思います。
寺田:それは翻訳家を目指す方たちにとって希望が持てるお話ですね。
大森:そうですね。続けて出せるかどうかはまた別の話で、翻訳物のラインとして読者がついている出版社で仕事をとっていかないと難しいかもしれませんが、ひとつでもあたれば続けられる。翻訳物のラインごと撤退する出版社もありますが、常に新しい出版社が参入してきているわけですし。英語圏以外の翻訳も色々な出版社が出すようになりました。何がヒットするかは出版社にもわからないし、急にバズることもありますからね。昔の本が電子書籍で売れ出したりとか。1回でも2回でも、まず増刷できれば続けられると思います。
寺田:持ち込みたい原書を見つけた場合、版権の確認などはまず編集者に企画を持ち込んでから行っていますか。それとも先にエージェントに問い合わせていますか。ある翻訳家の方が、このようなケースでまずエージェントに連絡したそうなのですが、私はいつも編集者を通していたので意外に思いました。エージェントとは頻繁に交流があるものなのでしょうか。
大森:ぼくの場合は、まず編集者に聞いて、その本の翻訳がどこかで検討されているかどうかを確認しますね。エージェントの人との四方山話で、あれはどうなってますかと聞くことはありますが、先にエージェントに問い合わせることはまずありません。ただ、エージェントも自社で扱っているタイトルを読んで評価してくれる人材を求めているので、専門知識のある翻訳家や翻訳家志望者なら、交流する場合はありますね。まったく実績のない人が、この作品を翻訳したいが翻訳権は空いているだろうかとエージェントに問い合わせて、ちゃんと対応してもらえるかどうかは、ケースバイケースだと思います。大きなタイトルの翻訳権だと、センシティブな場合もあるので、答えてもらえるかどうか……。逆に、そこから熱意を見込まれる例もなくはないでしょうが、まあ、珍しいケースだと思います。
SFの場合は、アメリカのSF情報誌に海外翻訳権の情報が掲載されたり、情報はけっこうオープンになっているので、ネットでマメに調べればわかる場合もあります。分野を問わず、情報集めは熱意と同じくらい重要ですね。
※大森望さんの最新情報はTwitterをご覧ください。
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