第78回 作家インタビュー~林望さん 後編
(市歌や校歌、合唱曲など多数の作詞を手がけるだけでなく、自らバリトン歌手として舞台に立つことも多いリンボウ先生。)
寺田:リンボウ先生にとっての見事な翻訳として、どんな作品が挙げられるでしょう?
林:見事な翻訳として推奨しているのは、『恐怖の地下室』など一連の社会派犯罪実録ものの翻訳をしている河合修治さんや、評論社からボストン夫人のグリーンノウ・シリーズの翻訳をしている亀井俊介さんというような人たちです。
寺田:どのような点を高く評価しておられるのでしょう? 名訳と駄訳の判断基準はどこに置いていらっしゃいますか。
林:河合さんの訳は、訳す対象の原典のもつ内容を、徹底的に理解して書いているというところです。そして文章が引き締まっていて無駄がありません。私は翻訳物は原則として読みませんが、この河合訳の実録犯罪物だけは、読み始めると翻訳であることを忘れて読みふけってしまいます。この翻訳であることを忘れさせてくれる翻訳こそ良い翻訳だと思いますが、そういうのはごくごく少ないのです。
亀井さんも同じで、ボストン夫人の、硬質で男性的な文章の味をよく日本語に写しています。が、じつはボストン夫人の訳本には児童文学者の瀬田貞二のものもあって、児童文学畑の人たちには「瀬田先生のは名訳だけれど亀井訳は良くない」という定評になっているらしいのです。しかし、ボストン夫人というその人の人となりを知り、またボストン邸の実際を知り、イギリスの風土の現実を良く知る目から見れば、瀬田訳はベタベタと甘くて、ボストン夫人の原典の味を殺してしまっています。しかし、そういうのが児童文学者たちには「良い訳」と映る、そこに私は日本の児童文学の持つ大きな問題があると思っています。
たとえば、ディケンズの『クリスマス・キャロル』の名訳といわれている村岡花子訳なども、私にはとても読んでいられない不自然な訳文に思えます。
寺田:訳文への評価は、原書をどれだけ把握しているかによっても変わってくるかと思います。大半の読者は原書を読むことはなく、翻訳書だけを読んで判断するので、児童文学であればその読者層に寄せて訳してある、いわば読者サービスを優先させたほうが評価が高まるのかと。編集方針などももちろんあるでしょうが、翻訳家の中でも、どちらに寄せていくかというせめぎあいはあったのではと拝察します。
林:これはセンスの問題です。原著の英文を読んで、それがどういう格調をもっているのかが理解できなければ、(これは意味を分るということとは別です)結局、なにを訳してもおんなじような文章になるということです。それでは原著者のもっている文体の妙やら、格調の高さみたいなものは捨てられてしまいます。児童文学の翻訳がたいていダメなのは、こういう意識が欠如しているからです。
『謹訳 源氏物語』を書いたときに、(これは外国語の翻訳も同じですが)ただ原文を分りやすく現代語に置換えたということでは全くありません。古語を現代語に置換えれば良いというわけではないのです。外国語だって横文字を縦文字に置換えただけでは翻訳とは言えません。その直訳の最たるものが機械翻訳で、あんなものはとうてい読むことができません。そこに訳者が、原著者の心に分け入って、その同じ心を、別のことばで語るという機序が必要です。そこは語学的知見と作家的想像力が必須です。だからこそ『謹訳 平家物語』では、語り手を芸能者という位置に置いて、自分が講釈師になったつもりで、講談の文体で訳しました。古典の訳はすべて同じような文章で訳してはおかしいのです。同じ「謹訳」でも源氏と平家では、まるっきり文体が違うのは、そういうわけです。その意味で、よく英文学者が英詩などを訳すのに、16世紀の古典でも19世紀の近代詩でも、同じような日本語で訳しているのを見ると、非常に白けたものを感じます。
寺田:源氏物語の現代語訳の際、書誌学者であり、かつ小説を書くように訳すという立場で取り組まれたわけですよね。「楽しみとして読める古典」「とっつきにくかったものを現代小説のように読めるように」というお話がありましたが、それを実現しようとするとやはり読者に寄せていくことになり、書誌学者の立場からはストップをかけたくなるのでは? 翻訳家と同様のせめぎ合いが生じるのではと思うのですが、どんな判断基準を持って取り組まれたのでしょうか。
林:そんなことはありません。飽くまでも紫式部はここで何を表現したかったのだろう、何を言いたいのだろうと考えて、それを現代語で現代の人に伝えるにはどう書くべきか、とそういうことに徹底して書いたので、そこには読者への迎合などはありません。紫式部がユーモラスに意識して書いたところも、哀切に描いたところも、恐ろしい怪談のように書いたところも、みんな同じような文章で訳してはダメだということです。それを意識して、ユーモラスなところは読者に笑ってもらえるように訳す、怪談的なところは、ゾッとするように訳す。そういう意識が、ちょうど平安朝にあの物語を聴聞して楽しんだ人たちと、文字で読んで楽しむ現代の読者を同じ位置に置くということになるわけで、鹿島茂さんは、そういう意味で、謹訳源氏を評価してくださったのです。そういう訳文を紡ぐためには、さまざまの文体、表現、語彙、を嚢中に用意しておかなくてはなりません。そのために国文学者、書誌学者としての知見が非常に役立ったということは言えると思います。その国文学者としての立場をはずれて読者に迎合するような文章は、謹訳源氏には一つもありません。
要するにね、外国語の翻訳者が多くはダメなのは、日本語の文体、表現、語彙などが貧弱で、どれもこれも「自分の文章」に直してしまうからです。私は翻訳文を読んでいると、「ははあ、これは原文はきっと……と書かれてるんだろうな」と、そればかりが気になって、ちっとも頭に入ってきません。ひどいのは、訳文を読むと、ただちに原文が推定できて、しかもそれが間違いの訳であることがわかってしまうような翻訳です。そういうのも結構ありますね。翻訳をする人はなにはともあれ、日本語を磨いてくれないと困ります。
寺田:耳が痛いです(苦笑)。翻訳家に求められるものは多いなあ……とクラクラしますが、実際にはそこまで自覚をもって参入される方はかなり少ないのではと思います。むしろ最初からそこまでわかっている方は、自分の力量も冷静に客観視しすぎてしまうので、「すでにこんなに素晴らしい先行作品があるのだから」と享受する側に甘んじて、自分がプレイヤーになろうとは思わないでしょうね。でもそうすると、「才能の有無は本人も知らない」とありましたが、掘ってみたらもっと才能があったかもしれないのに、自分で見切ってしまったばかりに出てこないという、もったいないことになりそうです。ある意味、ものを知らないほうが幸せなのかと。私は完全にそのタイプなのですが、やってみて「え? そんなことが求められるの!? まあ、大変!」と慌てて何とかして、その次に「え? そんなこともできないといけないの!? まあ、大変!」と、無知の知を更新し続けているわけですが……。最初から知っていたら、やっていたかどうか。仕事ごとに小出しに発見しつつ、その都度何とかしていくほうが結果的に残れるのかも、と思いました。
林:何事にも、まずは闇雲な努力ってのが必要なんです。成算のあり無しは関係なく。
寺田:リンボウ先生にとっての読者は、どういう存在なんでしょう? 読者に迎合するような文章はないとのお話ですが、それは読者への信頼がないとできないことですよね。自分が精魂込めて作った作品を、きちんと受け止めて読み込んでもらえるという安心感がないと成立しないと思うんです。もちろん、長年にわたる読者の方々との交流があるかと思いますが、たとえばエッセイの場合や古典の現代語訳の際など、それぞれに思い浮かべる具体的な読者像があるのでしょうか。また、ネット時代になってから文章を書くことへの意識が安易になったというお話がありましたが、受け手としての読者の力量の変化は感じておられますか。
林:読者像ってのは、結果として出来てくるもので、僕が『イギリスはおいしい』を書いたときには、まったく読者像は結んでいませんでした。論文を書いているときは、読者のことなど考えることもなかった。売れる必要などないのだから。
しかし、ともかく大衆向けの作品ともなると全く経験がないので、その想定のしようもないというのが正直なところでした。そこで、私自身が伊丹十三の一連のエッセイなどを読んだときに、これは面白いなあと思ったその思いを、自分の作品にも投影するようなというか、一種のお手本のようなものとして思っていたことは事実です。しかし、伊丹さんと私とでは、もともとのバックグラウンドが全然違うので、おのずからそれぞれの個性というものが出来てくるというわけです。
いまでも、たとえば、『おこりんぼう』の読者を、どのように想定するかと言われてもまったく想像もできません。作家の仕事というものは、そんなものではないかと思います。自分の想像する読者像は、現実と必ずしも一致しないのです。
講演などやると、来聴するのは、ほとんど女性でしたから、イギリス物などの読者はやはり女性がほとんどだろうと思っていたところ、担当の編集者に言われたことは、「林さんは、女性読者に人気があるとばかり思っているかもしれませんが、じつは案外と年長の男性読者に人気があるんですよ」とね。これは意外でしたが、事実だろうと思います。ジャンルによって読者像は違いますが、イギリスものは圧倒的に女性読者が多く、しかし、一部に根強い男性読者もいる、と思われ、いっぽうで、歴史小説などは中年以上の男、また、『帰らぬ日遠い昔』などはこれも年長の男性読者が中心であろうと思います。がしかし『謹訳 源氏物語』は、中年以上の女性、『謹訳 平家物語』ともなると、こんどは中年以上の男性、『増補 書藪巡歴』などは読書好きの各年代の男たち、と様々だろうと思います。そして、読者としてほとんど想像できないのが、若い男たちです。また関東の人には、読者が多いけれど、関西の読者は少ないだろうと想像されます。そういう地域差もありそうです。
要するにそういう読者を一々想定して、それに向けて書いているわけではありません。書く内容がおのずから文体を規程し、叙述の方法を規定していく、そんな感じがします。
読者の力量は、今も昔もそんなに変わりはなく、ただ、昔だったらぜったいに文章を書いて世の中に「発信する」ことなどなかっただろう人たちが、なんの意識も良心も自己批判もなく、思ったことをただちに書いてしまう。その結果として、「それ、ヤバクね?」みたいな、下品極まる文体が横行していると見られます。
寺田:「自分の想像する読者像は、現実と必ずしも一致しない」というのは、なるほど、そういうものなのかもしれません。地域差を考えたことはありませんでしたが、言われてみれば、たしかに関東の方のほうに多く読まれそうですね。読者の力量は今も昔もそんなに変わりはないというのは意外でした。書き手の質の低下と共に読者の力量の低下も感じておられるのではと思っていました。
林:読者の力量というものは、どんな時代にも、まあ正規分布しています。すなわち、一握りの上質な読者と、大多数の付和雷同する大衆と、一握りの読書とは無縁の人と。この割合はたぶん変化しません。
寺田:『謹訳 源氏物語』の企画を持っていっても「それよりイギリスの本を書いてほしい」と言われてなかなか実現しなかったお話を以前に伺いました。出版不況と言われるなかで書き手自らが「出せる環境をつくる」ことが大事になっているように思いますが、ご自身が書きたいものを書くための環境をどのようにしてつくってこられたのでしょう?
林:心ある編集者としっかり向き合うこと。私の場合でいうと、平凡社のYNさん、新潮社のSKさん、祥伝社のKKさん、光文社のYYさん、文藝春秋のIHさんなど、優れた編集者と正面から向きあって、自分の書きたいことを常に発信して、それが新しい著作に結実したというべきところかと思います。そういうことから、平凡社新書で『古今黄金譚』、文藝春秋で『ホルムヘッドの謎』、新潮社から『書藪巡歴』、光文社から『薩摩スチューデント、西へ』、祥伝社から『謹訳 源氏物語』などの古典や日本の歴史に材をとった書物を書くことができたのでした。
寺田:心ある編集者としっかり向き合うことは、翻訳家の場合にもそのまま応用できそうですね。ご自身が書きたいもの(たとえば句集『しのびねしふ』)と、編集者が先生に書いてほしいもの(たとえば『節約の王道』などビジネス書が多いのではと拝察しますが)とのバランスをどのようにとっていらっしゃいますか。
林:いわゆるハウツー物の先駆けは、PHP新書から出した『知性の磨きかた』で、これは同社にいたIJさんという優れた編集者との話しあいで生まれた企画です。こういうのを一つのひな形として、その後もさまざまの啓蒙的著作ができました。
ただ、そういうものを出すときに、たとえば口述筆記で書くということであっても、文章には著者としての責任を持つ、自分の文章として恥ずかしくない文章にするために、徹底的に推敲し、まずほとんど95%くらいは書き直してしまいます。筆記原稿をそのまま出すなどということは間違ってもありません。
寺田:95%くらいは書き直すのだと、最初からご自身で書かれたほうが早い気がしますが(笑)。「口述筆記はかえって時間がかかるからやめてくれ」とはならないのでしょうか。
林:口述筆記原稿があると、いわばレールの敷いてある状態のようなもので、その上を順序良く走っていけばいいわけなので、全くのゼロから書き起こすよりも遥かに能率的に進みます。まったくの書き下ろしだと、どうしても1ヶ月くらいは見ておいたほうが安全ですが、口述筆記原稿からの整斉だと、2週間もあれば充分です。
要するに、口述筆記原稿は、自分でない他者のライターが書くので言語感覚やボキャブラリが自分的でないから、読んでて違和感がすごいので、それを全部自分の言語感覚に置換える結果、ほぼ全部を書き換えることになりますが、能率は非常に上がります。ただ、それも筆記原稿を書く人の品格や筆力によって天地雲泥の違いがあり、良い筆記者を得ることは能率良く本を書くための必須条件です。なかにはひどく品のない文章で書いてくる筆記者もいて、そういうのは、頗る不愉快な思いで仕事をするので、能率が著しく下りますから、良い筆記者を知っておくことは大切です。私の著書の場合、口述筆記本は、デスマス調で書いてあることが多く、直接に書いたものは、決してデスマス調は使わないので区別できます。
寺田:なるほど、口述筆記も、そういう点では早いのですね。言語感覚やボキャブラリの違和感は、他の方の翻訳を直す場合に通じるかもしれません。監訳の仕事に近いものを感じました。
最後に、これから出版翻訳家を目指す読者の方々にご自身の著作の中でおすすめのもの、そして新刊のご紹介をお願いいたします。
林:ぜひ読んで欲しいものは『改訂新修/謹訳 源氏物語』(全10巻)、『謹訳 平家物語』、『帰らぬ日遠い昔』です。新刊は『おこりんぼう』、『定年後の作法』(ちくま新書より12月刊行)、『Nostalgia』(『巴水の日本憧憬』の日英両語版)があります。
寺田:今回のインタビューを機に、読者のみなさまにお読みいただけたらうれしいですね。ありがとうございました!
今回はメールでのインタビューでした。普段やりとりさせていただくなかで、ちょっとしたメールでもリンボウ先生の文章がおもしろく、書き言葉から記事にしたほうがその魅力をお伝えできるのではと考えてのことです。何をお尋ねしても速攻でお返事があり、「ご活躍の方ほど仕事が早い」とあらためて感じました。お忙しい中たくさんの質問にお答えくださったリンボウ先生、本当にありがとうございました!
※林望さんの最新情報は林望ウェブサイトをご参照ください。
※この連載を書籍化した『翻訳家になるための7つのステップ 知っておきたい「翻訳以外」のこと』が発売中です。本書の出版記念トークショー&サイン会を8月8日(土)18時から渋谷の大盛堂書店さまで開催いたします。詳細・お申込みはこちらからお願いいたします。