第46回 「まじめ」の罠②
「まじめ」の罠について、前回に引き続き考えていきます。
「まじめ」の大きな罠を感じる機会がありました。複数のピアニストの演奏を聴いたときのことです。あるピアニストの演奏が、とても「まじめ」だったのです。お人柄も感じられてそれ自体はとても好印象でしたが、彼の表現する楽しさも「まじめ」、苦悩も「まじめ」に感じられました。するとどれもが一定の感情の「型」を表現しているようで、彼自身が見えてこないのです。
対照的に、別のピアニストは、感情の奥にあるその人の本質のようなものが見えてくるのです。美しい部分も、歪んでいびつな部分も含めて、「この人はこういう人間なのだ」ということがすべて伝わってきました。いわば魂の形のようなもの。それが音楽と一体化して聴き手に流れ込み、圧倒的な魅力となっていました。
両者の演奏を比べながら、これも「まじめ」の罠ではないかと思ったのです。「まじめ」にがんばるほど、自分の本来の形がわからなくなってしまう。あるべきものばかりを追求して本来の姿から離れてしまい、いきものとしての自分の魅力をそいでしまうのです。
彫刻家の高村光太郎の著書『触覚の世界』に、こんな記述があります。
「世上で人が人を見る時、多くの場合、その閲歴を、その勲章を、その業績を、その才能を、その思想を、その主張を、その道徳を、その気質、又はその性格を見る。
彫刻家はそういうものを一先ず取り去る。奪い得るものは最後のものまでも奪い取る。そのあとに残るものをつかもうとする。其処まで突きとめないうちは、君を君だと思わないのである。人間の最後に残るもの、どうしても取り去る事の出来ないもの、外側からは手のつけられないもの、当人自身でも左右し得ぬもの、中から育つより外仕方の無いもの、従って縦横無礙なもの、何にも無くして実存するもの、この名状し難い人間の裸を彫刻家は観破したがるのである」
ここでいう「人間の最後に残るもの」、「人間の裸」こそ、人の本質だと思うのです。それは醜かったり、歪んでいびつだったりするかもしれません。だけど、自分が固有に備えているものだからこその力があります。人間には磁力のように他者を引きつけて、影響を与えていく力があるものです。それはその人が本来の形にある時に強く発揮されますが、自分でその形を見失ってしまっては発揮することができません。
自分に合った分野を見極めるのも、自分が続けやすい勉強法を生み出すのも、自分が訳すべき原書に出逢うのも、自分ならではの訳文を創り上げるのも、そして仕事につなげていくことも。すべて自分の本来の形がわかっていれば、すんなり運んでいくはずのこと。それが「まじめ」にがんばって「こうしなければ」「こうでなければ」となればなるほど、空回りしておかしくなってしまうのです。
あなた本来の魅力を損なうことなく、あなたに合ったやり方を見つけていってくださいね。
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