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異邦人を超えて

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

1979年公開のSF映画『エイリアン』は地球外生命体のモンスターが宇宙船の乗組員に襲いかかるセンセーショナルな演出が多くの人の心を捉え、その後シリーズ化したことで有名です。2012年に公開された『プロメテウス』はその前日譚としてエイリアンの誕生以前を描いた作品です。

その中で地球の種の起源が描かれています。まだ生物の存在していない原初の地球に全身が真っ白な宇宙人が登場し、自らの体を解体してDNAを地球の水に溶け込ませ、そこから発生した生物の最終進化形が人間だった、というもの。場面は2089年の地球に変わり、様々な古代文明の遺跡に残されたその宇宙人の痕跡を手がかりに、地球人の「創造主」である宇宙人の謎を解くために科学者チームが宇宙船に乗り込む、というのがメインのストーリーです。

高度に発達した知性をもつ宇宙人が地球の生物の進化や文明の発達を促した、というモチーフは『2001年宇宙の旅』をはじめ多くのSFで使われていますが、その始まりは19世紀後半にまで遡ります。

こちらの記事に面白い指摘があります。古代文明の建造物に宇宙人が関わるモチーフはH. G. ウェルズを代表とする19世紀後半のSF小説に始まり、ウェルズの『宇宙戦争』の続編としてギャレット・P・サービスの書いた『エジソンの火星征服』には火星の巨人がピラミッドを建設したという記述が出てきます。そして1968年にスイスの作家、エーリッヒ・フォン・デニケンが古代宗教の起源を宇宙人とのコンタクトに求めた『未来の記憶』が出版され、ヨーロッパでベストセラーとなります。1970年にはアメリカのタブロイド紙でこうした「とんでも本」の話題が取り上げられるようになり、ついには偽考古学や偽科学を取り上げるテレビシリーズが制作されていきます。

娯楽のためのたわいもない話題として害のない話に思える一方、そこには人種差別が隠されている、と先の記事は指摘します。デニケンの『未来の記憶』が取り上げる「古代文明」はエジプト、アフリカ、南米、北米の文明ばかりで、ヨーロッパ圏の遺跡はほとんど取り上げられていません。これは「ヨーロッパ人、つまり白人だけが古代において巨大建造物を作り上げる知性と技術を持ち合わせていた。それ以外の民族にそんなこと出来るわけがない。だから地球外生命体の仕業に違いない」という差別です。多くの学者によるそうした偏見の摘発と、デニケン自身の非常に人種差別的な文章が紹介されています。

ご存知の方も多いと思いますが、alienとはもともと「外国人」を意味します。このことばを宇宙のモンスターに変換することは、非ヨーロッパ圏の古代文明の起源を地球外生命体に求める発想、つまりalien(ヨーロッパ文明に属さない人々)をalien(人間の理解を超えた「異」なる存在)に変換する考え方にぴたりと重なります。自分にとって「変」な存在を「自分より劣った変な存在」か「自分より優れた変な存在」のどちらかに振り分ける思考とも言えるでしょう。

人種差別は良くない、と道徳的なことを言うのは簡単ですが、それほど実りの多い行為ではないでしょう。それよりも「科学」と「とんでも科学」の違い、言い換えれば「科学的な思考」と「とんでも科学を生んでしまう思考」を分けるものについて考えることが必要です。

科学的な思考とはどのようなものでしょうか?主観的な印象や先入観、世間の噂や多数決で決められた意見などを排除して客観的な事実に基づく思考、と答える方も多いでしょう。もちろんそれは正しいのですが、そこから転じて科学を「人間の関わりを全て排除した『現実そのもの』を記述すること」、言い換えれば主観や先入観といった様々なサングラスをかけて現実を捉えずにサングラスを全て外して現実を捉えること、と考えるのは問題です。

サングラスを外せば客観的な事実が目の前にある、というイメージの危険性は「事実」を「目の前にあるもの」に限定してしまうことにあります。事実は最初からそこにあるのだから、あとはこちらがサングラスを捨てればいいだけだ、という。でも、「事実」は本当に「目の前」にあるのでしょうか?いま私たちが外出の際にマスクをつけるのは何故でしょう?「目の前」に捉えることのできない「飛沫」と「マスクによる飛沫拡散抑止率」を「客観的事実」と認めているからではないでしょうか。

逆に、サングラスを外すことでしか科学的になれないとする考え方は、人間の視点すら排除することにつながります。サングラスを外したと思った私たちが別のサングラスをかけていたとしたら?映画『マトリックス』が描くようなバーチャルリアリティーから抜け出したとして、抜け出した先がまた新たなバーチャルリアリティーではないとどうして言い切れるのでしょうか。つまり、「サングラスを外す」とは「神の視点を手に入れる」ことを意味し、それを手に入れた(と思った)者を「神の目を手に入れた者」にし、「他人がどれだけ否定しようとも、どんな反論をしようとも、私は真実を知っている」と思わせます。陰謀論はこうした思考を土台にしています。

科学とは「目の前にあるものの記述」ではなく、科学的な手続き、つまり仮定、予測、実験、観察、考察、結論、そしてそれら全てをことばで共有するという人間的な手続きの全てを意味します。相手の仮定や考察に対して一定の価値を置き、疑わしい部分があれば理性的に反論を加え、その反論に対する意見があればまた理性的に吟味する、という手続きに身を置くこと。そこで受け入れられたものに価値を置くこと。そうした行為を保証するコミュニティに身を置くことを意味します。つまり、科学とは相手を尊重しながらお互いにことばを重ねる倫理的なつながりの一形態なのです。倫理の無いところに科学は存在しません。

「科学」が「とんでも科学」に陥るのを防ぐには「お互いを尊重しながらことばを交わすコミュニティ」の存在が欠かせません。とんでも科学や陰謀論がファンタジーの領域を超えて現実の暴力を誘発するにまで至った現代において、私たちは科学的な倫理、倫理的な科学を取り戻すことができるでしょうか。

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<今日のことば>

「とんでも科学」を英語にするのは難しいかもしれませんが、似非科学や偽科学という意味のpseudoscienceということばがあります。

プロメテウス(Prometheus)はギリシャ神話に登場する神で、人間に火を与えて文明や技術をもたらした存在として描かれています。

前日譚はprequelです。

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記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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