固有のことばと複製(後編)
(前編はこちら)
映画『パターソン』は複製のイメージに貫かれています。映画の冒頭、ベッドから出ようとするパターソンに目を閉じたまま妻が「私たちに子供がいる夢を見たわ。双子だった」とつぶやきます。その後、彼はバスの運転席から母親と一緒に横断歩道を渡る双子の女の子を見かけ、行きつけのバーでビリヤードをする双子の男と会い、街のベンチに座る双子の初老の男性、バスの乗客に双子の女の子、双子の年老いた女性を目にします。帰宅途中に出会った自ら詩を書くという小学生の女の子も、彼女を迎えにきた母親と彼女そっくりの妹の登場で双子だとわかります。
妻はパターソンに自分の詩を出版するように、せめてコピーを取るように幾度も勧めていました。つまり「秘密のノート」に双子(そしてさらに多くの兄弟)を作るように要請しています。パターソンは妻が出版の話をすると顔を手で覆って嫌がります。双子たちは彼の「コピーへの不安」の投影といえるでしょう。
同時に、双子はパターソンの個人的不安の投影以上の意味を持ちます。お化けを怖がる人が曲がった木の枝をお化けに見間違えるのとは違い、映画『パターソン』の物語世界の中で双子たちは現実として現れます。パターソンの見間違えではなく、彼が住む現実の中に双子が登場する。でも双子は夢で語られた存在で、現実的はありえないほどの頻度で登場する。つまり、この物語世界は現実であると同時に夢でもある、現実と夢とが同居する世界として描かれています。
さらに、バスの運転手(ドライバー)を演じるのはアダム・ドライバー。主人公パターソンが住む街の名はパターソン。パターソンの好きな詩人は『パターソン』という詩を記した「ウィリアム」・カーロス・「ウィリアム」ズ。パターソンの部屋にアメリカ海軍の制服を着た彼の写真が置いてあるシーンがあり、実際にアダム・ドライバーも海軍に所属していたことがあります。妻のカップケーキが売れたお祝いに二人が映画を観にいくと、映画の中に妻にそっくりな女優が登場し、パターソンは帰り道で妻に「あの女優は君そっくりだ。まるで双子のようだ」と言います。
これらすべて、「固有であるべきものが固有ではない可能性を示唆している」と言えるでしょう。映画『パターソン』の中でアダム・ドライバーは俳優ではなくパターソンである必要がありますが、冗談のように彼は二重に「ドライバー」として登場し、その二重性は妻の二重性でも表現されます。私たちが双子の方々を目にしたときに興味深く思うのは、すべての人に存在するはずの唯一無二のアイデンティティがゆらぐ気がするからでしょう。そう、固有であるべきものの固有性がゆらぐ瞬間、それがこの映画を貫いています。
最後に登場する日本人男性の意味も説明がつくでしょう。申し合わせたかのようにウィリアム・カーロス・ウィリアムズの本を出し、パターソンが詩人であることを知っていたかのように話し、「Ah hah」と噛み合わない返事をする。異次元からやってきたような、もしくはパターソンの頭の中だけに存在すると解釈できそうでありながら、物語の現実に存在する人物。彼が異次元からの使者だとすればそのSF的な展開は日常に潜む詩を丹念に描くこの映画の持ち味を台無しにしますし、パターソンの頭の中だけの存在であれば彼が再び詩を書き出すような触発を与えるという描写の真実味が失われます。映画『パターソン』の物語が成立するために映画内の現実の人物でありながら、同時にその現実味がどこか不安定な、その固有性がゆらぐ存在。
複製のイメージ、固有性のゆらぎ、固有なものが同時に固有でないという二重性、すべては終盤の日本人とパターソンのやり取りに集約されます。「詩の翻訳なんてレインコートを着たままシャワーを浴びるようなものです」という台詞は、詩の固有性を表しています。詩は徹底して自分だけのことば、主観的なことばであり、詩人の固有なことばです。詩を「ナルシスティックなことばを綴っただけの表現」と捉える人がいるのはこのためでしょう。自分の詩がコピーされることを恐れるパターソンの態度にもつながります。と同時に、日本人はウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩の翻訳本を広げていました。翻訳本が無ければ、そしてそもそも詩が出版されなければ、彼が詩人のことばを知ることはできません。固有でなければならない、そして同時に固有性が否定され(コピーされ)なければその固有性を伝えることができないし、詩として成立することもできない。
さらに、詩人の「自分だけのことば」がそのまま他の誰かにとって「自分だけのことば」として伝わるからこそ、詩は詩として成り立ちます。他人が綴ったことばなのに何故か自分のことばとして心に迫ってくる瞬間。どこの誰だか知らない人物が徹底して個人的な思いを綴っただけなのに、それが自分の内面を綴ったことばとして響く瞬間。そこに詩は存在します。その日の天気を「今日は晴れています」と客観的に伝えるのでなく、つまりAさんからBさんへ「客観」を通じて「A—客観—B」と伝わるのではなく、Aさんの「主観」がそのままBさんの「主観」と重なる現象。固有なものが固有なまま、別の固有なものへ複製され、拡散されていく。そのことばを私たちは「詩的」と呼ぶのでしょう。
つまり、これは詩の本質を映画という形式を使って表現した物語なのです。
詩が成立するとき、つまりことばが誰かの固有のことばとして複製されるとき、そのことばは人に新たなことばを綴らせる力を秘めています。日本人男性がパターソンにもたらすのはその契機であり、ジム・ジャームッシュは映画『パターソン』を私たちにとっての日本人男性として差し出しています。「ふわっとしてよく分からない映画だな」と距離を置いて見るか、「ジャームッシュの映画だな。ストーリーはこれこれで、、」と客観的なデータとして捉えるか、そこから固有のことばを綴り始めるか。すべては私たち次第です。
そんな瞬間なんて存在するの?という声が聞こえてきそうです。それに「客観的」に答えることはできません。日本人が去った後、パターソンが書き始めた詩を紹介することで答えとしましょう。和訳はつけません。レインコートを着たままシャワーを浴びるのは楽しくないですよね。
The Line
There’s an old song
my grandfather used to sing
that has the question,
“Or, would you rather be a fish?”
In the same song
is the same question
but with a mule and a pig,
but the one I hear sometimes
in my head is the fish one.
Just that one line.
Would you rather be a fish?
As if the rest of the song
didn’t have to be there.
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<今日のことば>
「固有性」は文脈によりuniqueness、identity、individualityなどと訳されます。
「ぶれる」はそのまま訳せばblur、be swayedなどとなりますが、上記の文脈では「固有性がぶれる」をまとめてindividuality is underminedと訳せるでしょう。
固有なものが固有なまま複製され拡散される、という哲学の議論はJacques Derridaの『Limited Inc』に詳しく書かれています。参考までに。