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宿命の裏ルート(後編)

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

松本清張の推理小説を原作とした映画に「砂の器」(1974)という作品があります。

東京の蒲田駅にある操車場で起きた殺人事件を軸に、事件を追うベテラン刑事の今西栄太郎と犯人らしき男・新進気鋭の天才ピアニストにして音楽家の和賀英良(わがえいりょう)の視点から物語が展開します。

事件の被害者である老人・三木謙一と今や世界的な音楽家の和賀の間に全く接点が見えないことから捜査は難航します。今西刑事は捜査線上にあがる人物を調べるため秋田、島根、大阪、石川へと奔走します。全国を回って集めた情報から分かってきたことは、音楽家・和賀は石川県の寒村の生まれで、彼の父は病気にかかったことから妻に見捨てられ、ついには息子である幼い和賀と共に村から追放されていたという事実。

さらに分かったのは、殺された三木老人は和賀にとって恩人と呼ぶべき人物であったという事実。村を追われ物乞いをしながら放浪の旅を続けた和賀親子は島根県の小さな村に辿り着き、その地で巡査をしていた三木に手厚い保護を受けていたのです。和賀の父は病気の治療のため療養所へ送られ、身寄りのない和賀少年は子供のいなかった三木巡査が引き取って実の息子のように可愛がりますが、彼はすぐに家出してしまい、そのまま消息を絶っていました。数十年が経ち、偶然にも和賀の存在を知った三木は東京に出向き、一流の音楽家となり前大蔵大臣の娘を恋人にもつまで社会を登りつめた彼と再会します。その翌日に三木は和賀によって殺害されていました。

なぜ和賀は恩人である三木を殺害したのか?和賀の父親の病気が関係しています。妻に見放され村を追い出されるまでされた彼の父の病気は、ハンセン氏病でした。時は1938年。非科学的偏見と恐怖からハンセン氏病患者を社会から排除する国をあげた社会運動が起きていた時代です。ハンセン氏病患者を家族に出すことは恥とされ、患者を摘発・強制収容する「患者狩り」が行われ、「病気の治療」の名目で「患者の社会的抹殺」が官民一体となって進められていた時代(詳しくは「無癩県運動」で検索)。和賀親子は存在自体が許されない者として言語を絶する壮絶な放浪生活を送り、島根県にまで行き着いたところを三木巡査に保護されていたのでした。

そうした背景があるのなら、なおさら和賀の三木殺害の動機が謎となります。実は東京で和賀に再会した三木は、和賀の父がまだ生きていることを伝え、父に会うことを強く勧めていました。それを頑なに拒否する和賀は、何としても和賀たちを再会させようとする三木の存在を消すために彼を殺害したのでした。

そこまでの経緯がわかると、事件を追う今西刑事は療養所にいる和賀の父親のもとを訪れます。すっかり年老いた姿となり車椅子を押されて出てきた父親は事件のことを一切知りません。刑事が現在の和賀の写真を見せ、「この写真の人をご存知ないですか?」と聞きます。父親は写真を手にすると見る見るうちに表情を変え、涙を流し、叫び声を上げながら言います。「こんな人、知らねえ!」と。刑事が何度聞いても嗚咽をもらしながら繰り返し否定します。

和賀は同じ頃、自分の音楽家人生を掛けた一大プロジェクトとして自らの書き下ろしピアノ協奏曲を指揮・演奏するコンサートを開きます。曲の題名は「宿命」。壮大さと悲哀が波のように重なり合う旋律を奏でる和賀の脳裏には、父との放浪生活の様子が回想されていきます。和賀の逮捕状をもち、演奏中の舞台裏にまでたどり着いた今西刑事に、コンビを組む若手刑事が聞きます。「今西さん、和賀は父親に会いたかったんでしょうね?」今西は答えます。「そんなことは決まっとる。いま彼は父親に会っている。彼はもう、音楽の中でしか父親に会えないんだ」

さて長くなりましたが、前回の話につなげてみましょう。私たちは「宿命」のトラップから抜け出すことができるのか?できるとすれば、それはどうやって?

和賀にとって、彼の壮絶な体験は時代が生んだ「宿命」だったのかもしれません。いくら正しいこと(科学的な知識)を訴えたところで社会がその声を抹殺すると悟った彼は、「宿命」から抜け出す裏ルートとして、もうひとつの「宿命」を作り上げたのではないでしょうか。

つまり、芸術とは宿命の裏ルートであると言えないでしょうか。

ヘーゲルが言うように私たちは遡及的に(retroactively)歴史を作り上げ、自らの理性によって「これはこういう宿命だったのだ」という世界観を作り上げ、いくら「宿命とは思考のトラップによって作られたものだ」と正論を並べたところで青臭く薄っぺらなことばになってしまうのなら、そうした理性の檻を抜け出す手段としてアートが存在するのかもしれません。現実から逃避してお花畑で戯れるのではなく、現実を生きながら理性とは別のルートを通って他者と出会うために。

映画の解釈は映画の解釈でしかありません。ただ、単なる解釈であっても、こうして映画(アート)と宿命論(理性)を並べることばが意味をなすのであれば、つまり、このことばが理性的に理解されるのであれば、私たちは理性が作り上げる「宿命」に囚われながらも、どこかに裏ルートを見つけることができるのかもしれません。

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<今日のことば>

「新進気鋭の」はup-and-comingやyoung and energeticと訳されることが多いです。

「お花畑で戯れる」はlive in a dream worldと訳せるでしょう。また、同じような意味でlive in cloud cuckoo landという表現もあります。

「裏ルート」はback routeではなくback channelです。

映画「砂の器」の英語タイトルは「Castle of Sand」となっています。原作小説の英語版のタイトルは「Inspector Imanishi Investigates」です。

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記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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