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真実の箱、真実と箱(後編)

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

ロブ・ライナー監督の映画「ア・フュー・グッドメン (A Few Good Men)」(1992)は二つの箱について示唆に富んだ作品です。

キューバの米軍基地内で起きた海兵隊員の殺人事件をめぐり、容疑者として逮捕された同じ部隊の海兵隊員二人を弁護する軍の法務官・キャフィ中尉(トム・クルーズ)と、彼が真犯人だと睨む基地の司令官・ジェセップ大佐(ジャック・ニコルソン)が対決する軍法会議を中心にストーリーが進みます。

被害者は軍内に裏の司令として存在する暴力制裁コード・レッド(Code Red)により殺されたらしく、それが基地の最高権力者であるジェセップから出されていた可能性があることを突き止めたキャフィは、法廷で真実を突き止めようとします。基地のトップを真犯人と断定することは、その立証に失敗すれば自分の身の破滅を招くというギリギリの状況の中、法廷経験のないキャフィは果敢にジェセップの罪を追求していきます。

基地内で最高権力者に不利な発言をする者はなく、コード・レッドの存在を立証できそうにないキャフィは逆に追い込まれていきます。証言台に立ったジェセップとの激しいやり取りの末、四面楚歌のキャフィは決死の覚悟で「私は真実が知りたい!(I want the truth!)」と叫びます。鬼の形相のジェセップはすぐさま「お前に真実など分からん!(You can’t handle the truth!)」と返します。

そしてジェセップは、「お前に何が分かるというのだ。私のような人間が武器を手にして最前線を守っているからこそ、お前らは私が与えてやった『自由』という毛布にくるまってぬくぬくと寝ていられる。お前らはパーティーで気楽に騒ぎながら、心の奥底では私に最前線を守っていて欲しいと望んでいるのだ。ただ『ありがとうございます』と感謝だけしていろ!」と捲し立てます。

それでもひるまないキャフィは、巧みにジェセップの発言の矛盾を突き、彼を逆上させ、怒りに我を忘れた彼を勢い余って自供させることに成功して、裁判は決着します。

さて、ジェセップが捲し立てたセリフの裏に「二つの箱のロジック」が働いていることに気がついた方はいるでしょうか。正確には「二つの箱しかないロジック」と呼ぶべきかもしれません。

最前線で国を守っている自分と、そのおかげで毛布にくるまりパーティーを楽しんでいられるお前たち。「役に立つことをしている」自分と、そのおかげで「役に立たないこと」と戯れていられるお前たち。「誰のおかげでメシが食えてると思ってるんだ!」と言わんばかりの態度の裏にあるのは、森羅万象を「徹底的なコスパの追求」の箱か「それ以外すべて」の箱のどちらか入れようとし、前者に入らない、もしくは入れるべきか分からないもののすべてを後者に閉じ込めるロジックではないでしょうか。箱は二つしか存在しないのだから、と。

そんなロジックを持つ者が、こう断言します。

You can’t handle the truth.

American Film Instituteが発表した「アメリカ映画の名セリフベスト100」の29位にランクインするほど有名なこのセリフ、そのインパクトが強烈なのは、映画の場面の意味を超えて哲学的命題の響きを含んでいるからなのでしょう。日本語字幕では「お前に真実は分からん!」と訳されているようですが、youは「お前」ではなく人間一般、the truthは「事件の真相」ではなく哲学的な真理、そしてcan’t handleは「分からない」ではなくて手に負えない、つまり「真実とは人間の手に負えるものではない」という意味にも読めるからです。

  1. 箱は二つしかないとする世界観
  2. 真実を求めることへの諦め

これらを統合した存在であるジェセップの姿は、これら二つの間に相関関係があることを暗示しているように思えてなりません。

つまり、箱が二つしかないとする世界観を持つ瞬間、真実は消える。

プラトンは主観的信念、つまり本当かどうか分からないけど世間で慣習的にそうだろうと思われていることをドクサ (doxa) と呼び、感情に左右されず理性的な判断で正しいと認められた知識をエピステーメー (episteme) と呼んで区別しました。哲学者の仕事とはドクサを打ち破り、エピステーメーに至ることだ、と彼は結論します。

箱が二つしかないという世界観こそ、現代のドクサではないでしょうか。

急速にグローバル化が進み、ますます先行きが不透明になる世界に新しい視点を導入して時代の閉塞感を突破する若い人材が求められているなら、そうした人材こそエピステーメーをつかむ者であるべきでしょう。その人材を育成するはずの大学がまさに「二つの箱」のドクサによってその可能性を消そうとしているなら、これ以上の皮肉はないでしょう。

そんなの単なるこじつけだ、映画の勝手な解釈にすぎない、という声が聞こえてきそうです。もちろん、そうかもしれません。ここに書いたことは、ハリウッド映画という極上の「エンターテイメント」と戯れているだけの、科学的根拠も無ければ「社会的要請」も無い、ただの感想文なのかもしれません。いずれ二つ目の箱に入れて焼却炉に投げ込まれるようなことばなのかもしれません。私にこのようなことばを与えてくれた哲学科という施設と一緒に。

個人的には、このことばに少しでも「理がある」のだとすれば、それこそエピステーメーをつかむ「理性」の働きなのでは、と思うだけです。

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<今日のことば>

「哲学的命題」はphilosophical propositionと訳したくなりますが、propositionでいいでしょう。そもそも命題とは哲学で扱うことなので、philosophicalは必要ありません。

「社会的要請」はsocial demandと訳すことができます。demandは日本語の「ニーズ」にあたる英語としても使われます。

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記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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