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真実の箱、真実と箱(前編)

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

2010年4月、哲学界にある事件が起きました。イギリスのロンドン北部にあるミドルセックス大学(Middlesex University)の教養教育学部長が、同大学の哲学過程をすべて閉鎖すると発表したのです。哲学科を消す、という宣言です。理由は「単純に財務的なこと」と説明されました。

この哲学科は大陸哲学の分野で世界トップレベルの功績を残していただけに、すぐに科の内外から閉鎖に反対する署名運動が起こりました。ヨーロッパ各国の著名な哲学者たちも署名に参加し、The Guardian誌などメディアも取り上げ、学生たちによる抗議デモ、ビルの占拠や座り込みなど様々な抗議活動が展開されました。

メディアの多くは大学側の主張を批判的に報道。New Statesman誌は、「財務的な理由」といっても同大学は大学の研究結果を評価するResearch Assessment Exerciseで最高位を取得しており(大学の「価値」を査定するというこの実践にどれほどの意味があるかは別として)、財政面の問題のために閉鎖するという大学側の主張は理解し難い、と報じています。The Guardianも同様の記事を掲載。最終的に同学部がキングストン大学(Kingston University)に移転するという形で事態は収束しました

そして日本では2015年6月、文部科学省が国立大学すべてに対して「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」と題する通知を行いました。各大学の人文社会系の学部は「社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組む」ように「組織見直し計画を策定」しなさい、というもの。

これは文系学部を廃止しろという通知ではないか、との批判が大学関係者たちから巻き起こり、メディアでも報道されました(こちらこちらこちらなど)。文科省側は廃止に重点を置いたものではない、と説明を加えたものの、その説明とは、急激にグローバル化する世界において「専門的に細分化」「タコツボ化」した学習内容を廃し「社会人の学習需要」に対応するかたちに学問を「可視化」する、というもの(興味がある方はこちらに説明の全文があります)。

こうした世界的な「文系学部の見直し」の流れには、その流れを推し進めようとする人たちに共通の認識があるように思えます。学問を「役に立つもの」と「役に立たないもの」に分ける、という捉え方。文科省の使う「社会的要請」ということばがそれを端的に表していますし、ミドルセックス大学のいう「財政上の理由」に至っては「哲学ってコスパ悪い」といった意見の率直な表明でしょう。

私自身、個人的に様々な人から「そんなこと(哲学)して何になるの?」といった素朴な疑問を投げかけられてきましたし、世間の多くの人が哲学や文学など文系学問は「役に立たない」「役に立つとしても、やっている人の頭の中だけで楽しむのもの」「単なる知的エンターテイメント」と認識しているのでは、と推測します。

だからといって、文系学問に知的エンターテイメント以上の価値を見出さない人たちのことを批判する気はありません。その人たちの認識を間違いだと指摘することよりも、その人たちが指摘していないこと、つまりその認識が取りこぼしていること、それにこそ目を向けるべきだと考えます。

ものごとを「役に立つか、役に立たないか」という枠組みで捉えることには、そもそも何の問題もありません。それができなければ私たちの生活自体が成り立たないでしょう。問題は、ものごとの「すべて」をその枠組み「だけ」で捉えようとすることではないでしょうか。

「役に立つか、役に立たないか」という枠組みが、世界のすべてに関して正解を導き出す神の道具のように捉えられ、政治経済から文化事象、教育、コミュニティ活動、人間関係、恋愛、その他もろもろの価値観まで、すべてをその「役に立つか、もしくはエンターテイメントか」のフィルターを通して見ようとする強迫観念が働いているように思うのは私だけでしょうか。

「役に立つか、役に立たないか」という視点に過度のプレッシャーがかかることで、「理系」が前者で「文系」が後者、という二項対立が生まれる。そしてそのプレッシャーの裏には、月曜から金曜までは徹底的にコストパフォーマンスを追求する、つまり「役に立つこと」をする時間で、土曜と日曜は、月曜からまたコスパ戦争に立ち向かえるようにガス抜きをする、つまり「エンターテイメント」をする時間、という時間枠に閉じ込められた現代人の姿が見えてはこないでしょうか。

人文社会系が「役に立たない」と見られるのは、散らかった部屋を片付けるときに「徹底的なコスパの追求」と「それ以外すべて」とラベルの貼られた二つの箱しか用意されておらず、一つ目の箱に入れていいかわからない物のすべてを二つ目の箱に放り込んでしまった結果なのではないでしょうか。要するに断捨離を間違えた、ということ。

徹底的に役に立つもの、それ以外は徹底的に役に立たない、つまりエンターテイメント以上の価値をもたないもの、という二項対立が私たちにとってあまり幸せな結果を生まないとすれば、その二項対立の限界を暴き、三つ目、四つ目の箱を用意する必要があるのではないでしょうか。

この「文系廃止論」が騒がれた時期に、私はある映画を思い出しました。

(後編へ続く)

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<今日のことば>

「強迫観念」はobsessionと訳されます。be under pressure toで「〜しなければならないと追い込まれている」という表現もできます。

「人文社会学系学問」はhumanities and social sciencesと訳します。

「ガス抜き」には英語でも似た表現let off steamということばがあります。「エンターテイメントでガス抜きをする」はLet off steam with entertainmentと訳せるでしょう。

Written by

記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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