仮定法な世界で
皆さん、英語の仮定法は得意ですか?
これを読んでいる多くの方が英語が得意だと思いますが、いわゆる「帰国子女」でなかった方は高校の英文法の授業で初めて仮定法を学んで苦労した、なんて経験もあるのでは。
「えーっと、カテーホーカコはif I were youとかで、カテーホーカコカンリョーはcould have ppで、、、」なんて言いながらマーカーを引いた教科書を何度も見返した方もいるでしょうか。私も苦労しました。
そもそもインド・ヨーロッパ語族の言語、つまりフランス語やドイツ語、スペイン語などには「接続法」という、現実には起きていないことを述べる法(mood)が存在します。英語の仮定法はこの兄弟のようなもの。だからヨーロッパの言語とは文法が大きく異なる日本語で生まれ育った場合、仮定法が難しいのは当たり前なのです。
でも最近、母国語が何であるかに関わらず多くの人にとって仮定法が身近になってきているのでは、と感じることがあります。
現実に起きていないことについて、いまここで述べること。これが仮定法の本質でしょう。「仮に、現実がこうだったとしよう。その場合はー」と考えてみる。目の前にある現実は疑いもなくリアルな現実だけども、それと同時に「仮の現実」の可能性に思考を開く。
いつの世も人が言葉を使って行ってきた当たり前のことですが、最近はその「仮の現実」と本当の現実との距離に変化が出てきているように思えるのです。
文学の世界にマジックリアリズムと呼ばれる手法があります。「ありえない現実」と「本当の現実」が奇妙な形で直結するというもの。1982年にノーベル文学賞を受賞したコロンビアの作家ガルシア・マルケスの代表作「百年の孤独」をはじめ、60年代にブームとなったラテンアメリカの文学作品に多く使われ、有名になりました。
日本では村上春樹がマジックリアリズムを多用している作家と言われます。彼の長編小説「羊をめぐる冒険」がその代表格でしょう。
主人公の「僕」はある日、巨大な権力を持つ右翼団体のトップらしき人物に命令され、日本には存在しないはずの羊を見つけ出す奇妙な旅に出ます。問題の羊とは人に憑依する霊的な存在だということが分かり、徐々にその全貌が明かさていきます。ついに羊がいると思われる場所、親友の別荘に到着しますが、現れたのは羊の皮を着ぐるみのように被った男、「羊男」でした。
羊男はタバコを吸い日本語をしゃべり、ヒゲ面の口元が羊の仮面からむき出しになっています。拍子抜けするほど凡庸で「現実的」。その姿は不格好で滑稽ですらありながら、同時に超現実的で霊的な存在として「僕」の前に登場します。目の前に展開されるのがファンタジーなのか現実なのか、判断がつかない状態。ファンタジーでもあり、同時に現実でもある、そんな世界。
日本文学研究者のマシュー・ストレッカーはマジックリアリズムを「詳細にまで描写された現実的な場面が信じがたいほど奇妙なものに侵略されること(what happens when a highly detailed, realistic setting is invaded by something too strange to believe)」と定義しています。
「侵略される」とはどういうことでしょう。国家による侵略を想像してください。侵略国(X)は侵略された国(Y)の同意なくその土地に居座り、X語をYの公用語にし、Xの文化とルールでYを塗りつぶします。それでYはXになったのでしょうか?そんなわけはありません。侵略の暴力で抑圧されたYの怨念は影となってXに漂います。XはXでありながら、「存在しないはず」のYを含んでいるのです。Yは消滅した。でも、どこかに存在する。それがどこなのか、誰にもわからない。
マジックリアリズムがファンタジーと違うのはこの点です。ファンタジーは要するにおとぎ話。これは架空のお話です、と宣言することで成立し、「奇妙なもの」と「現実的な場面」が完全に切り離されています。マジックリアリズムでは、両者の距離がゼロになります。侵略により、違和感を残しながら両者が同時に存在する。どこまでが「現実的な場面」なのか、「奇妙なもの」なのか、区別がつかない。そんな世界観。
現実の中で現実に起きていないことを想定し、「仮にこの現実(A)が違う現実(B)だったとしてみよう」「AだってBだったかもしれない」と考える点で、仮定法と同じ構造を持つと言えないでしょうか。
世界50か国以上で翻訳され、毎年のようにノーベル文学賞の有力候補としてメディアに取り上げられる村上春樹の作品がそれほど多くの人の琴線に触れるのだとしたら、それはこの「仮定法的なリアルさ」が理由なのかもしれません。
リアルといっても所詮は小説の中のことでしょ?なんて思う方もいるかもしれません。でも、本当にそうでしょうか?
2016年にイギリスのオックスフォード辞書が発表した「今年の言葉」はpost-truth(ポスト真実)でした(こちらの記事)。莫大な量のニュースとフェイクニュースがフラットに並べられたサイバー空間にスマホでつながり、私たちは情報の濁流に身をさらしています。事実とファンタジーを分けるのは受け取る側の判断力のみ。昨日までの人気者が今日からは炎上の対象。真実を証明する政府の公式文書さえも、いとも簡単にシュレッダーにかけられる現実。一体、誰が桜を見たのでしょう。
まさに私たちは仮定法的な現実を生きている、と言えないでしょうか。
そこで「何が現実で、何がファンタジーか?」を問うのは哲学の仕事ではありません。もちろん両者を識別するのは大事ですが、哲学は「『現実』とは何か?」を問います。私たちはそもそも「現実」という言葉で何を意味しているのか?私たちにとってリアリティとは何か?
そう問うとき、多くの人が共有する「リアルなもの」として、私たちは仮定法的な世界に直面するのかもしれません。
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<今日のことば>
「インド・ヨーロッパ語族」は英語でIndo-European languagesといいます。
「憑依する」はpossessです。1981年のフランス・西ドイツ合作ホラー映画「Possession」も何者かによる憑依がテーマでした。
「拍子抜けする」はletdown(がっかりさせるもの・こと)、disarming(敵意や恐怖を取り除くような)、anticlimactic(盛り上がりを期待していたら無くてがっかりする)と訳せるでしょう。