リアリティという名の冒険
1999年にアメリカで公開された映画「マトリックス」を観たことのある方も多いと思います。
キアヌ・リーブス演じる天才ハッカーのネオが、自分の生きている現実は実はマトリックスと呼ばれる仮想現実であることを知らされる、という物語。巨大なコンピューターによって作られた仮想現実が電気信号として人間の脳に直接送られているため、人間はその信号を自分の五感で捉えた現実だと思い込んでいた。本当の現実世界では、無数の人間がすべてカプセルに入れられ、脳にケーブルをつながれて植物のように「栽培」されていた、というSFです。
この類のSF映画は数多く作られているので馴染みのある方も多いでしょう。レオナルド・ディカプリオ主演による2010年の映画「インセプション」も同じモチーフを扱い、そこでは仮想現実の問題がさらに一歩深めて捉えられています。
ディカプリオ演じる産業スパイのコブは妻のモルと仮想現実の世界に入り、そこから現実に戻りますが、本当の現実とそっくりの仮想現実を体験した後では、妻のモルにとって「本当の現実」と「仮想現実」の区別がつかなくなります。本当の現実からも「目を覚ます」ことを望んだ彼女はマンションの窓から身を投げてしまいます。心に深い傷を負ったコブの胸の内が映画の終盤で語られます。
これら二つの映画に共通するのは「この現実が本当の現実であると、どうやって証明できるのか?」という問題。夢の中で経験することを「現実」と捉えてしまうという私たちの日常的経験からも、人類の歴史と共にある古い疑問かもしれません。
これを究極にまで突き詰めたのが近代哲学の父と呼ばれるルネ・デカルト(1596-1650)です。地動説を唱えたガリレオ・ガリレイと同時代人だった彼は、ガリレイ同様、聖書に書かれた「現実」と科学的に証明された「現実」とのズレに気づき、悩みます。現実とは何か?目の前にある現実は本当に現実と呼べるのか?
彼は思考実験をします。目の前の現実を疑ってみる、という実験。目の前のみならず、あらゆる現実、あらゆる概念、神、科学的真実をも疑います。そして「どのように疑っても疑えないものが存在したら、それこそが現実と呼ぶにふさわしいものである」と考えます。目の前の物質的現実、彼の体、数学的真理(1+1=2という真実でさえ、私が毎回考えるたびに悪魔が嘘の答え「2」を私の頭に吹き込んでいるかもしれない。少なくともそう「疑う」ことはできる、とデカルトは真面目に考えます)、神、そして彼自身の存在すら、疑います。
さて、「私は存在しない」と自分の存在すら疑ってしまった彼には、もう何も「現実」と呼べるものなど残されていないように思えました。でもひとつだけ、残されていたのです。「私は存在しない」と疑っているのは誰でしょうか?そう、存在を疑う自分自身。その「疑う私」は決して疑えない。なぜなら、疑うこと自体が疑う者の存在の証明であるから。
これが有名な命題「我思う、ゆえに我あり(I think, therefore I am)」の意味です。
疑う私の存在は否定できない。だとすると、私以外の現実のすべて、私の体や外界や神の存在や数学的真理など、その全貌はまだ解明できていないけれど、とりあえずは「考える私」というスタート地点からひとつひとつ「現実」を明らかにしていけば、いずれ「すべて」が分かるはずだ、と考える。ここから近代哲学が始まります。近代的思考とは、感覚や印象や憶測に頼らず、「考える私」というピュアな意識を手段として世界のすべてを構築する試みでした。
さて、デカルトの議論はさらに詳しい説明が必要ですし、「我あり」と言ったところで「じゃあ、どうして私たちは理性的であるのに、時として現実を間違って捉えてしまうの?」という疑問が残ります。ここで全てを紹介することで出来ません。
私が強調したかったのは、この一連の議論に漂う、「青臭さ」とでも呼べるものです。ぶっちゃけ、これっていわゆる「中二病」的なお話に聞こえませんか?
「目の前にある現実が現実でなかったら?」という話は多くの人にとって「いわゆる哲学的」で、お昼休みに同僚と話してちょっとした知的好奇心を刺激する格好の「デザート」かもしれません。
でも「デザート」を食べ終わったら、取り掛かる仕事が山のように残っています。日々の経済活動、少子高齢化、東アジア諸国との外交問題、年金やジェンダー差別や環境問題、等々。考えただけで頬がこけてしまいそうな「現実」を前にして「この現実は現実じゃないかもしれません」と真面目に語る人が現れたら、どうでしょう。
哲学が「知的デザート」やハリウッド映画の格好の題材となってしまうのは、デカルトがたどった探求のうち、「疑い」ばかりが強調されてしまったからだと思います。「現実を疑う」という態度はもちろん深く物事を捉える上で必要かもしれませんが、デカルト哲学の本質は別のところにあります。
つまり、理性とはそれ自体がクリエイティブな営みである、ということ。
彼がしたことは、
- 「現実とは何か?」という疑問からスタートして
- 「本当の現実」を証明する最終地点まで理性を手掛かりに考えを突き詰めていく
- しかし、そこに土台はない、というゼロ地点に至る
- でも「私」は存在する。それを否定することはできない
- 土台は存在しない、でも、私は存在する、という理解しがたい矛盾
- その矛盾こそが「現実」なのであれば、そこに存在する自分とは何者か?
- そこから新たに「私」の意味をアップデートする
という自己を再構築する探求の旅だったのです。
「現実」の意味を掘り下げ、その土台に行き着いたときの驚き。そこに生まれる感情。矛盾から目をそむけない勇気。そこから新しい概念を生み出そうとする決意。それを完遂する意思。それらすべてを含めたダイナミックな物語こそが「理性」そのものではないでしょうか。
「理性的なもの」と「感情的なもの」をむやみに分離して「僕は理性派」「あいつは感情派」とレッテルを貼り、人を分断する壁の向こう側とこちら側でお互いに相手を「非理性的・感情的な連中だ」と決めつける態度。それらすべてが「理性」の意味を誤解したイメージから発しているとしたら、そのイメージの描き換えこそ、今もっとも現実的な問題なのかもしれません。
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<今日のことば>
「青臭い」はnaïveやhalf-bakedと英訳できます。half-bakedは文字通りパンなどが生焼けであることから転じて「(考えが)未熟な」という意味。
「知的好奇心」はintellectual curiosityと訳されます。epistemic curiosityと訳すこともあり、このepistemicは哲学で知識や認識にまつわる問題を扱う分野「認識論」= epistemologyからきています。
inceptionは「発端」「始まり」を意味する英語です。「この現実は実は夢なのでは?」という疑問を植えつけられると、どこまでも現実を疑う態度が始まってしまう、という意味でこの映画のタイトルになっています。