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引き裂かれた世界、飛び越える言葉

葛生 賢治

考えることば ことばで考える

みなさんは「刑事コロンボ」というテレビドラマをご存知でしょうか。60年代終わりから70年代にかけてアメリカNBCで放送された犯罪ミステリードラマ。日本でも放送され、大人気となりました。

いつもヨレヨレのコートを着て葉巻を持ち、ずんぐりとしてどこか冴えない風貌のイタリア系アメリカ人コロンボ警部。その外見とは裏腹に、類い稀な洞察力と明晰な推理力で犯人のトリックを次々に見破り、難事件を解決する姿が見る者を引き込みます。

一話完結のこのドラマ、犯人は大企業の社長や医者、弁護士、作家など、いずれも社会的地位の高い人物で、その地位を守ろうとするエゴから殺人を犯します。それを「どこにでもいる人」の姿をしたコロンボ警部が鋭利な刃物のような推理でぐいぐいと追い詰め最後に陥落させるストーリーは、エゴイスティックな「権力者」を「一般大衆」が陥落させるというアメリカンデモクラシーのドラマとしての構造を持つ、と言われています。

冴えない風貌に加え、常に庶民的な語り口で雑談を交え、話が脇道へ逸れることもしばしばで、「のろまな奴」という印象すら与えるコロンボは、完全犯罪を成し遂げたとうぬぼれる犯人たちを油断させます。「いやあ、ウチのカミさんがね、あなたの本の大ファンでしてーー」という具合。

この「ウチのカミさん」、彼のトレードマークともいえるセリフなのですが、オリジナルの英語は「my wife」です。「私の妻」でもなければ「ウチの女房」でも「俺のワイフ」でもない。正に「ウチのカミさん」こそコロンボの言葉であって、それ以外は有りえないと言えるほど見事なフレーズ。「ウチのカミさん」と言わせることで、コロンボの人となりがさらに際立ってきます。日本語訳を担当した額田やえ子さんの名訳と言われています。

注目すべきは、コロンボという人がまず存在して、それに見合う言葉として「ウチのカミさん」が自動的に導き出されたのではない、ということ。目の前にある花瓶を「花瓶だ」と描写するような単純な作業から名訳は生まれません。

例えばSNSのプロフィール欄のようなものを思い浮かべてください。自分というものが「自分の名前」と「自分のスペック」の二つ構成されているように、一方にコロンボの人柄、他の誰でもない、コロンボをコロンボたらしめている「コロンボそのもの」が存在し、もう一方に様々な特徴、「冴えない」「イタリア系アメリカ人」「刑事」「親しみやすい」「類い稀な推理力」「庶民の代表」が列挙される、としてみましょう。「コロンボそのもの」をC、特徴のリストをTとします。私たちがすぐに気づくのは、いくらTの項目を増やして充実させたとしても、Cにたどり着くことはない、ということ。

例えば「親しみやすい」という特徴はコロンボが「どういう風に親しみやすいのか」までは表現できません。仮に「人懐っこい感じで親しみやすい」や「親戚のきさくなおじさん風に親しみやすい」という風にどんどん表現を充実したところで、それらの描写は彼以外の親しみやすい人たちにも当てはまる可能性があるからです。要するに、Cにたどり着くには「まさにコロンボ風に親しみやすい」と、Cに触れなければならない。Tの領域にいる限り、決してCにはたどり着けない。

ここで大きな問題が出てきます。Tにいる限りCにはたどり着けないのだとしたら、そもそも私たちは本当にCにたどり着いているのでしょうか?そもそも私たちが五感や経験で得られるのはその人の個別の特徴、つまりTだけだ、とは言えないでしょうか?

フランス人哲学者ジャック・デリダ(Jacques Derrida)は次のように言います。

The first question of philosophy is: What is “to Be”? What is Being? The question of Being is itself always already divided between who and what. (哲学の最初の問題とは「存在する」とは何か、存在とは何か?である。存在の問題はそれ自体、いつも既に「誰」と「何」の間で引き裂かれている。)

少々抽象的な言い方ですが、要するに「『誰』と『何』の間で引き裂かれている」というのは、CとTとが常に分裂しているということです。私たちはTをいくら並べてもCにたどり着けない。それでも、たどり着けないはずのCを何故か直感的に掴んでしまう。私たちの「存在そのもの」を考える哲学はまずこの分断に直面する、ということです。

分断されているのだから、単純につなぐことは出来ません。つなぐことが出来ないにも関わらず、「ウチのカミさん」という表現がまさに「コロンボそのもの」につながったように感じられるのは何故でしょう?

「ウチのカミさん」という言葉によってC自体が新たに作り直された、と言えるのではないでしょうか。言葉を事実に貼り付けるのではなく、言葉が事実を作り出す・生み出すのです。

翻訳を一度でもしたことがある人なら分かると思いますが、翻訳は決して単純な仕事ではありません。Tの中の一項目「英語」をもう一つの項目「日本語」へ単純にコピーできるわけがないのは当たり前のこと。Tにいながらにして、Tからは分断されているはずのCを新たに生まれ変わらせる作業、新しいCを生み出す仕事が翻訳なのだと言えるでしょう。

その意味で、翻訳とは常に「言葉」と「事実」の分断を飛び越える創造性の一形態なのかもしれません。

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<今日のことば>
コロンボ警部の正式な階級はlieutenantで、これは「警部補」を意味します。ただ語呂が悪いということで日本語版では「コロンボ警部」とされたそうです。

「冴えない」はlameという英語で表現できます。lameは同時に「つまらない」「ダサい」といった意味を持つスラングです。「類い稀な洞察力」はincomparable insights、「明晰な推理力」はclear reasoning skillsと訳すことができるでしょう。

哲学では上のように「存在」にまつわる議論を存在論(ontology)と呼びます。古代ギリシャ語で存在(being)を意味するontosを語源としています。

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記事を書いた人

葛生 賢治

哲学者。
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。専門はアメリカンプラグマティズム。博士論文の表題は「ジョン・デューイ哲学における宗教性」。

現在は東京にて論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
最新の発表論文はデビッド・リンチ、ジョン・カサヴェテスの映画分析を通じたリチャード・ローティー論。趣味は駄洒落づくり。代表作は「クリムトを海苔でくりむとどうなるんだろう」。

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