Vol.51 翻訳に生きる哲学の知識
【プロフィール】
葛生賢治さん Kenji Kuzuu
早稲田大学卒業後、サラリーマン生活を経て渡米。ニュースクール(The New School for Social Research)にて哲学博士号を取得した後、ニューヨーク市立大学(CUNY)をはじめ、ニューヨーク州・ニュージャージー州の複数の大学で哲学科非常勤講師を兼任。
現在は東京にて哲学論文執筆・ウェブ連載・翻訳活動に従事。
今回はハイキャリアにもコラムを掲載して頂いている哲学者の葛生さんに、翻訳と哲学の関係などについてお話を聞いてみました!
1)日本語と英語の文法の違いに衝撃を受けた中学生時代
本日はインタビューをお受け頂きありがとうございます。
まず初めに、葛生さんがどのような出来事をきっかけに、語学や哲学にご興味をもったのかお聞かせ頂けますか。
私は初めから哲学者を志していたのではなく、「言語」というものにまず興味を持ちました。私が初めて外国語を学んだのは中学一年生の時です。それまで私は使う言語は異なっても、同じ表現方法(語順)で人々は会話をしていると思っていたのです。
例えば「私は魚を食べます」を英語で表現すると「I fish eat」が正しいと思っていたのです。しかし英語では「I eat fish.」が正しかった。なぜ語順が違うのか、語順は違うのになぜそれで意味が成り立つのか。中学生の私にはめまいを覚えるほどの衝撃的な事件で(笑)、とても不思議に思いました。そして、日本語を通じて世界を見た時と、英語を通じて世界を見た時とでは、世界が全く違って見えるのかもしれない、ことばを通じて私たちは別の世界を生きているのかもしれないと思い、のめり込むように英語を学びました。当時は英語ができる人として学校の中で有名人になるくらい猛勉強したんですね。また同時に中国語の発音はなんて美しいのだろうと興味をもち、英語と中国語をひたすら学びました。
そして様々な言語の魅力を掘り下げていった先に、ことばを使う人間そのものの不思議さに気がつき、学び続けた結果、哲学にたどり着いたのです。
言語とは、それぞれのことばで単語や文法が異なるものだと私は何の疑いもなく捉えていたので、葛生さんのように「なぜ違うのか」と深く考えたことがありませんでした。着眼点が非常に面白いですね。では大学を卒業後から、哲学者としての道を歩まれたのですか。
大学でも私は英語と中国語と哲学に関心があり、この三つは特に力を注いで勉強をしました。しかし私が大学を卒業した時はちょうどバブルが崩壊したころだったので、夢を追っている場合でなく、明日の生活費を稼ぐため、英語も中国語も哲学も全く関係のない一般企業に就職して、コピー機を売る営業マンをしていたんです。でもコピー機を売るだけの仕事に面白さを見出すことができず、社会人三年目で会社を辞めました。大手企業に就職はできたものの、充実感の無いまま人生を進めるのは嫌で、昔から興味がある「英語と哲学」でもう一度頑張ってみよう、その先に未来があるかもしれない、と思ったのです。そしてもう一度英語を学びなおし、約一年半後にはボストンカレッジの哲学科に合格し、アメリカで英語で哲学を学ぶ機会を得ました。その後、アメリカで哲学講師として教鞭をとる機会に恵まれ、哲学者としてのキャリアをスタートさせることができました。
社会人三年目で会社を辞めると決断するまでにはそれなりに思い悩むこともありました。でもあの時思い切って行動してみて良かったです。
2)なぜ英語で哲学を学ぶのか
一度は日本企業でサラリーマンをされていたのですか!会社を辞めてから一年半でボストンの大学に合格されたとは、とても努力されたのですね。すごいです!
海外の大学で英語を使用し哲学を学ばれ、何かプラスになったことはありますか。
そもそも西洋哲学で有名な哲学者は、ギリシアを発端にヨーロッパに誕生しています。そのため彼らの思想はドイツ語・フランス語・英語などの言語で書かれました。
渡米するまでは日本語に訳された哲学書を何冊も読んでいたのですが、哲学には「存在」や「真理」など抽象的なことばが多く、日本語に翻訳することが非常に難しいため、和訳された哲学書はより難解に感じられました。それを日本語を介さず原文に近い形で読むことで、先の哲学者たちが何を伝えようとしていたのか、よりダイレクトに理解できたことは大変プラスになりました。
例えばデカルトの有名な「I think, therefore I am(我思う、ゆえに我あり)」ということばがありますが、「我思う、ゆえに我あり」では意味が捉えにくくないですか。
彼が言いたかったことはこうです。「疑いようのない真実」を見つけるために、デカルトは周囲のあらゆるものや、自らの肉体さえも存在するのか疑いました。そして最後に、どうしても疑うことのできないものを見つけたのです。それは「いま全てを疑っている私の意識」の存在です。「全てを疑っている私の意識は確かに存在している」そして「私の本質とは疑う(考える)意識である」、これが「我思う、ゆえに我あり」なのです。
ですからI amを「我あり」と訳してしまうと、I am が本来意味する「私の存在(I exist)」と「私の本質(what I am)」のうち、前者しか意味することはできません。デカルトはその両方の意味をこめて I amと表現したことが、英語だとダイレクトに理解できたのです。
3)哲学と翻訳の関係
日本語に訳された哲学書も素晴らしいですが、原文で読むことで、より哲学の理解が深まったのですね。また葛生さんは哲学者と翻訳者は、同じような作業を行う存在だと仰っていましたが、どういう意味なのでしょうか。
実は、様々な哲学者が「哲学と翻訳」の関係について語っています。なかでも最も印象に残っているのは、私が博士論文で取り上げたアメリカ人の哲学者ジョン・デューイのことばです。デューイは哲学者を「liaison officer」に例えています。日本語では「連絡将校」と訳され、軍隊の中である部隊からある部隊へ情報を伝達したり、あいだを取り持って調整する将校を意味します。つまり、ある文化圏ではAと表現されるものが他の文化圏ではBと表現される、という具合に橋渡しをする人。全く違う文化、言語、価値観をもつ人たちのあいだに立って意味の翻訳をする人を哲学者と言っているのです。
私は翻訳の専門的なトレーニングを受けていないので偉そうなことは言えませんが、私自身も翻訳の仕事をする際には逐語訳のような単純な言葉の入れ替え作業ではなく、その文化圏で受け入れ易い表現を選ぶなど工夫をしているので、彼のことばに深く共感しました。
また「Think outside the box(箱の外を見なさい)」という哲学の有名なことばがありますが、箱の外を見ることは翻訳においても同じことが言えると思います。
先に述べたように単なる逐語訳をしないためにも、自分の住む箱の中(国や文化圏)の価値観に捕らわれず広い視野を持ってことばの意味を捉え、別の表現を導き出すことで、より良い翻訳ができるのではないでしょうか。
4)翻訳に生きる哲学の知識
哲学と翻訳の関係は非常に興味深いです。
葛生さんは翻訳をするとき、どのようにことばを選び出しているのか、その過程もお聞かせ頂けますか。哲学者ならではの視点も影響するのでしょうか。
まず哲学をする上では、カントの哲学の中心にある「目の前に見えている現象の裏を考える、舞台にあがっている登場人物に対して舞台裏を考える」という「critical thinking」が重要です。
物事を鵜呑みにせず、批判的に捉え吟味を重ねるということですね。私は哲学の基礎である「critical thinking」を翻訳をする際にも必ず行います。
先日「立派な人に見えない立派な人になろう」という文章を英訳することになり、私はこれを「Let’s become somebody who looks like anybody」と訳しました。
私は「立派な人」など個別な単語の意味や文法的な繋がりよりも、それらの裏にあるものについて考えました。つまり、この文章がどういう意図で発せられたか、ということ。
この文章は、変換すれば「立派な人であってもそれを表に出さない奥ゆかしさを持つ、そんな人になろう」と言うことができますが、そうすると「立派な人に見えない立派な人」という表現をあえて選んだ発話者の意図が失われます。
表舞台にある「表現」ではなく、舞台裏にある「意図」に注目すると、「普通の人」と「普通の人に見えるけど普通ではない人」というきれいに対をなす概念が浮かび上がりました。そこで「some」対「any」を選び、このように訳しました。
他にも、あるプロジェクトに関して「想いとこだわりが凝縮された」ということばを翻訳する機会があり、それに携わられた社員の皆さまの素敵な想いが込められた、キラキラ輝く結晶のようなものを思い浮かべ「Such a hope and obsession of ours are being crystallized」と訳しました。
多くの翻訳家の方もそうされているかもしれませんが、私は常に哲学的に、criticalに舞台裏を考え翻訳に活かしているといった感じです。
5)ことばの本当の意味を考える
「ことば」とはどのような背景があり、どのような意図をもって使われたのかを考えると、非常に奥深いと改めて感じます。哲学や翻訳をする上では、ことばの意味を考えることが重要なのですね。
言語哲学の分野で「語用論(pragmatics)」というのがあります。これはことばの意味を、辞書に載っている単なる意味から読み解くのではなく、そのことばが使われる文脈も含めて捉える、というものです。
例えば、「この部屋は暑いですね」ということばを誰かが発したとします。辞書的な意味だけでこの発言が何を意味するのか突き止めようとすると、「この」「部屋」「は」「暑い」「です」「ね」をそれぞれ辞書で引いて、意味を調べて、それを繋げる、という手続きをとりますね。
でも、発言者は実は「暑いから窓を開けて欲しい」という意味で言ったのでした。そうなると、いくら「この」「部屋」などの単語の意味を辞書で調べても、発言者の真意を汲み取った意味にはたどり着けません。
この「意味」は、ことば自体がどういう文脈で発せられたのか、それを踏まえないと見えてきません。ということは、ことばの意味とは辞書に収められた意味だけに還元できない、常に新しい使われ方の可能性に開かれている、ということです。
絶対的な正解があるわけではない(open-endである)からこそ、ことばは常に新しい意味を持ち、新しく生まれ変わります。その上で「翻訳」という作業を考えると、翻訳とは常にそのopen-endのことばに向き合い、新しい意味を「見つける」のではなく「作り出す」行為だとは言えませんか。そうなると、翻訳者はcreativeでないといけないですよね。
哲学も翻訳も最終的な正解がなく、終わりがない。いくら考えても良い出口(訳し方)が見つからず大変な場面もあると思うのですが、そんな時は知らず知らずのうちに自分にかかっていた先入観のフィルターを外して、全く別の角度から「ことば」を見てみるといいかもしれません。
哲学とは難しいことではなく、「ちょっと違った角度から物事を見てみる」ことです。わずかにでも違う角度からことばを見ることができれば、そこからより大きなものが見えてくるかもしれません。
【編集後記】
葛生さんはお話の引き出しがとても豊富で、終始笑いの溢れる楽しいインタビューとなり、なんと2時間もお付き合い頂きました!
「哲学」と聞くと内容が難しく、敷居の高い学問と構えていたのですが、意外にも身近なものだったようです。翻訳作業だけでなく仕事で息詰まった時「ちょっと違った角度から物事を見てみる」ことで新たな気づきがあるかもしれないと、葛生さんからヒントを頂きました。