TRANSLATION

第54回 辞書と調査

土川裕子

金融翻訳ポイント講座

今回は、辞書と調査の問題について少しお話してみたいと思います。翻訳で食べて行きたいのなら、専門用語辞典をしっかり揃えるのが当たり前! 資料はカネで買える実力だ!・・などと言われます。その通りです。特に専門用語が多い医薬や法律・契約、技術等々の分野では、紙かオンラインかを問わず、辞書がなければ始まらないだろうなあ、と想像します。

金融ももちろん、同じ部分はあります。例えば今や金融関係者なら常識語のquantitative easingですが、これを普通の英和辞典で引いても、載っていない可能性が高いでしょう。あってもquantitativeの欄に用例としてこっそり掲載されている程度でしょうか。しかし、ここ10年ほどで発行された金融専門の辞典ならば、まず間違いなく載っています。

でも…この金融講座をきっちり読んでいただいている皆さんなら、すでにお気付きかと思いますが、金融関連の用語はどんどん変化して行きますし、省略化も激しいですし、同じ言い方でも、意味するところが前と微妙に違うことさえあります。

スペイン語の経済ビジネス用語辞典の(地獄の)編纂に加わったわたしの経験から言って、正直、「きょう」発行された紙の辞典を見たとしても、ここ半年間に生まれた言葉、よく使われるようになった言葉は、恐らく載っていません。一年前のものさえ載っていないかもしれません。ネット辞書ならもう少しマシでしょうけれど、毎日誰かが全精力を傾けて更新を続けて行かない限り、ごく最近の用語や使われ方まで網羅することは難しいでしょう。

だから辞典や事典を揃える意味はない、と言っているのではありません。十分に普及・定着した用語を調べるためにも、紙・ネットを問わず、時間をかけてその道の専門家がしっかり吟味した語義や説明を載せている資料は、常に使える状態にしておくべきです。例えばquantitative easingのような、それに相当する訳語を探し出せば解決する、いわゆる「専門用語」は、そういった対処で問題ありません。

そこはしっかりと体制を整えたうえで、金融翻訳者を目指す方には、どの辞書にも載っていない意味を何とかして探り出すスキルを身につけておけ!と、声を大にして言いたいと思います。もっと言えば、「その単語一つに筆者が込めている意味」に気がつけるよう、それが無理なら、少なくとも疑問を持てるようになっておかねばなりません。

金融の専門用語とは限りません。

特に金融分野は、現実の政治・経済・社会との係わり合いが非常に強いだけに、「一定数以上の人が知っている(と筆者が考える)モノ、制度、事象、事件、歴史」について、かなり省略された形でしか書いてくれません。例えば今の日本に暮らしている人なら、”GO TO”と聞いただけで、どんな制度であり(そもそも「制度である」という認識が必要)、何が理由で導入されて、いまどういう施行状況になっていて、それに対するここ数ヵ月の世論の反応はどうで…等々、ぱっと頭の中に広がるはずですが、同じような言葉の米国版を突然言われたところで、よほど力を入れて米国事情を追っている人でない限り、分かるはずがありません。

GO TO制度が政治・経済・社会に与えた、また今後与えるであろう影響を考えれば分かることですが、ここ1、2年の日本の経済・金融状況について述べようとすれば、必ずやこの言葉が出てきます。自分が「日本語ネイティブでなく、日本に特に興味のない米国在住者」で、読んでいる文章に”GO TO”とだけ出てきた場面を想像してみてください。九分九厘、分からないだろうと思います。

金融翻訳者として欧米発、アジア発(場合によっては中東・アフリカ発?)の文章を訳すということは、この種の言葉の各国・地域版と頻繁に出会うことを意味します。翻訳者は、その一つの単語や句に、各国・地域独自の意味合いがあり、それをただ字義通り(例えばGO TOであれば「ゴートゥー」とのみするなど)訳したところで、日本で普通に暮らしている人々には分かってもらえない可能性が大きいのだ…ということを肝に銘じなければなりません。

これは辞書では絶対に解決できませんので、何とか調べ上げ、日本語だけを読む読者にも分かってもらえるよう、最低限の補足を入れるなりする必要があります。

抽象的な話ではなかなか分かりにくいでしょうから、できれば次回、具体例を挙げたいと思います(無理でしたらごめんなさい)。

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記事を書いた人

土川裕子

愛知県立大学外国語学部スペイン学科卒。地方企業にて英語・西語の自動車関連マニュアル制作業務に携わった後、フリーランス翻訳者として独立。証券アナリストの資格を取得し、現在は金融分野の翻訳を専門に手掛ける。本業での質の高い訳文もさることながら、独特のアース節の効いた翻訳ブログやメルマガも好評を博する。制作に7年を要した『スペイン語経済ビジネス用語辞典』の執筆者を務めるという偉業の持ち主。

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