第53回 原文にそう書いてあるからOK?
こんにちは。今回は「原文をそのまま訳すだけじゃだめですよ〜」という重い話を分かりやすい例で確認して、2020年の締めくくりにしたいと思います。今年10月頃、ある組織からパンデミック発生以降の世界経済について分析した文章が発表されたのですが、この中に非常にいい例がありましたので、ご紹介します。
問題の文までは、コロナ禍によって世界景気は落ち込んだが、ここに来て一応立ち直りを見せている、しかし回復の足取りは鈍く、企業の投資も個人消費も引き続き縮小しており、持続的成長が望めるような状況にはない・・という内容でした。これに続くのが、問題の文です。
Even stock markets, which experienced a sharp rebound earlier in the year, seem to be taking a breather.
何ということもない文章で、特に何も考えずそのまま訳せば
年初に急激な反発に転じた株式市場でさえ、これまでの上昇が差し当たり一服している感があります。
とでもなるでしょうか。
しかし実はこれ、事実と照らし合わせると、ちょっとまずいんです。それは株価が反発した時期。普通、日本語で「年初」と言えば1月、長めに見積もってもせいぜい2月までと思うのですが、実際に株価が反発したのは3月も中旬のこと。
2020年年初来で見て、東証株価指数の底は3月16日、日経平均は同19日です。日本だけでなく、米国のS&P500も英国ロンドン市場のFTSE100指数もすべて、株価の底は3月後半で、その後急激に反発しています。
earlier in the yearを辞書で引けば、確かに「年の初め」と載っていることが多いですし、この意味で使われることも頻繁にありますが、今回は単に「今(10月)を基準にして、それよりもっと早い時期」、あるいは少なくとも「年前半」と言いたいだけなのだろうと思います。そこのところを考えず、単に「年初」とすると、「事実と異なる文」になってしまいます。
何より重要なのは、「疑問を持つ」こと。疑問を持たなければ、調べることも思いつきませんから、「事実に照らすことなく、頭の中にある語義をただ当てはめた」状態になっていないかに注意しましょう。頭の中に正確な情報がない場合、あるいは何となく記憶はあっても確信が持てない場合は、「調べる」。これも重要です。
今回の場合、特にどこの国とも市場とも言っておらず、単に(世界の)stock marketsということですから、主要市場の総合株価指数を調べれば十分でしょう。Yahoo!ファイナンスでもBloombergでも、証券会社のサイトでも、どこでもいいので行って株価指数のチャートを選び、YTDつまりyear to date(年初来)または1 year(過去1年)の推移を見れば、一目瞭然です。
権利の問題があるので、ここでチャートを表示することはできませんが、例えばS&P500指数は年頭から2月19日までじりじりと上昇し、その後急落、3月23日が株価の底となっています。(その後急反発して、足元では年頭とほぼ変わらない水準)。
またこれほど大きな動きですと、わざわざチャートを調べなくても、金融関係の報道を少し探すだけで、「3月が底であった」事実がすぐに浮かび上がります。
したがって、
Even stock markets, which experienced a sharp rebound earlier in the year, seem to be taking a breather.
のearlier in the yearを事実に即して、しかし英語から離れることなく正確に訳すならば、「今年の早いうちに」や「年前半」になります。ただ今回の場合は「3月」であることに疑問の余地はありませんし、「株価の急反発」というピンポイントの出来事との組み合わせでもありますので、「今年3月に急反発した(株式市場)」と言い切る選択肢もあり、と思います。
そこまでやっていいのか、と思う人がいるかもしれません。しかし翻訳者は翻訳会社からのクレームを避けるために仕事をしているわけではなくて、最終顧客と、さらにその先で問題の文章を実際に読む人々に満足してもらうために翻訳サービスを提供しているわけですから、逆に翻訳会社(あるいは最終顧客)を説得するくらいの気構えがあって良い、と考えます(もちろん「創作」はダメですし、上の例でも、「3月」としたうえで、その理由をコメントとして残すか、訳文は「年前半」等にして、「3月にする案もありです」と提案し、最終判断を翻訳会社や顧客に委ねるかする必要はあります)。