TRANSLATION

第39回 生きるべきか死ぬべきか

土川裕子

金融翻訳ポイント講座

こんにちは。今年は1月以降、ずっと休みナシでお勉強してきましたので、今回は閑話。気楽に読み流してください。

この講座では「金融翻訳」を看板に掲げていますが、以前から言っていますように、金融といっても中身は千差万別です。例えば月次・年次報告書などは型にはまった文章が多いですし、テクニカルな意味で高度なレポートは各々様子が異なるものの、内容さえ理解していれば(ってそれが大変なのですが)、日本語そのものにはそれほど苦労しません。しかし、中には文芸翻訳者さんにやってもらってください、と言いたくなるようなものがあります。

新聞や雑誌の場合、例えば思想的に独自色を強く打ち出す欧米の新聞であっても、経済・金融に関しては、基本的に事実をひたすら並べる記事が多いように思います。しかし銀行や資産運用会社のレポートは、それこそが顧客に対する売りになりますので、社会の時流に乗りつつ、各社独自の視点を入れ、分かりやすく、飽きさせず、何より最終的にその会社のサービスを使う気にさせるような文章にしなければなりません。例えば運用会社ですと、何億、何兆という規模の資産を運用する機関投資家が主な顧客になりますので、当然ながら情報発信にも力が入ります(例えば日本の公的年金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の運用総額は約160兆円)。

従ってそういった会社は、自社ホームページにInsightsやOur Thinkingなどのコーナーを設け、独自の視点から経済や市場の状況を分析・評価した各種のレポートを掲載しています。

わたしの経験から見て、最も日本語に苦労するのはそういったレポートです。特に、CIO(最高投資責任者)やチーフ・エコノミスト、インベストメント・ディレクター、クオンツ・アナリスト、ストラテジストといった肩書きを持つ方々が署名入りで書く文章は、あふれる知性と教養が抑えきれないのか、非常に凝った表現・構成になっていることがあり、正直「もっとフツーに書いてくれた方が分かりやすい」と思ったりします。

何とか読者を惹き付けたい一心からか、文学作品の有名な表現や、名作映画の決めゼリフを借用しているケースも少なからずあります。例えばシェークスピアのTo be, or not to be: that is the questionとか、映画「ターミネーター」のI’ll be back.とかですね(あまりに手あかがつきすぎてか、どちらも最近はとんと見なくなりましたが)。

ハムレットやターミネーターほど世界的に有名な作品なら良いのですが、中には「○国人なら誰もが知っている」けれども日本人にはあまり馴染みのない作品や、読んだ経験がある人が実は少ない古典作品なども登場します。しかも、I’ll be back.ならともかく、To be, or not to beのような、いかようにも解釈のできる表現が出てきた場合、そこだけをいきなり訳せと言われても、なかなかできるものではありません。

これまでにわたしが出会ったのは、ロシア文学、米国の現代小説・名作映画、有名SFなど。

ロシア文学の時は、ある小説の冒頭の文章が引用されていたのですが、たまたま翻訳書が我が家にあったので、ニュアンスを分かったうえで訳出することができました。分厚い上下巻2冊からなる作品で、内容などほとんど覚えておらず、途中からの引用だったらどうなったかと考えるだけでゾッとします(当然ながら読んでいる時間もなし)。

米国の小説は、後に映画化された作品だったので、有名なセリフのところはすぐ訳せたのですが、長い長い物語のどこにあるかも分からないセリフもあって…あの時はどうしたのだったか、もう記憶もおぼろげですが、たぶん何とか訳したのでしょう。映画の方をたまたま見ていたことも役に立ったのだろうと思います。

SFに当たった時は、セリフや文章ではなく、そのSFが題材としていた「未来社会の(ある意味突飛な)考え方」を引き合いに出す形になっていましたので、たまたまわたしの座右の書に近い作品でなかったら、いったいどうしただろう…とこれまた冷や汗が出ます(ハイ、わたくし、SFファンなのです)。

もちろん、例示/逆説/比喩など、原稿に組み込んで何らかの効果がある文章でなければ、引用の意味がありませんから、筆者がどんな効果を狙っているのかが分かれば、引用文の意味も基本的には分かるはずです。はずなんですが…やはり欧米の方と我々日本人では発想が違うのか、それともわたしの想像力が貧困なのか分かりませんが、どう頭をひねっても、どうしてここでこの引用?意味分からん!ことがあり、その場合はやはり原典に当たって本意を確認するのが最も効率的であり、間違いがありません。しかし実際問題として、その時間はありません。

だからどうしましょう、という対処法がないのが、この問題の難しいところです。文学作品を読みまくり有名映画を観賞しまくっても、それ以外の小説・映画が出てくればおしまいですし。知性と教養にあふれた人になったとしても、B級映画から材料をもってこられたら太刀打ちできませんし。

したがって、翻訳者にできることは、「なるべく自分の知っている作品から引用されますように」と祈ることしかありません。

知り合いの翻訳者に、訪ねてみました。
「この問題、対処法ある?」
「ない。場当たり的にガンバレ」

※既存の訳書や映画の吹き替え・字幕がある場合、(出所を明示して)その訳をそのまま使うかどうかは、翻訳会社、あるいはクライアントとの話し合いになるかと思います。

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記事を書いた人

土川裕子

愛知県立大学外国語学部スペイン学科卒。地方企業にて英語・西語の自動車関連マニュアル制作業務に携わった後、フリーランス翻訳者として独立。証券アナリストの資格を取得し、現在は金融分野の翻訳を専門に手掛ける。本業での質の高い訳文もさることながら、独特のアース節の効いた翻訳ブログやメルマガも好評を博する。制作に7年を要した『スペイン語経済ビジネス用語辞典』の執筆者を務めるという偉業の持ち主。

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