第1回 金融翻訳=文芸翻訳!?
はじめまして。今月からこのHiCareerで金融翻訳について書かせていただくことになりましたアースです。
わたしが「金融翻訳者」と誰はばかることなく名乗れるようになったのは、それほど昔のことではありませんので、もっとベテランの方々から「まだヒヨッコのくせに!!」とお叱りを受けそうな気もします。が、過去に講師業を経験した者として、「人に教えるのが一番勉強になる」と考えていますので、この場を利用させていただきます(笑)。
具体的な内容は次回からにしまして、今回は、そもそも金融翻訳とはなんぞやという根本的な部分、そして他の実務翻訳分野との違いについてお話ししたいと思います。少々長くなりますが、お付き合いください。
様々な翻訳会社のホームページや、雑誌の記事、翻訳者募集、そして実際に翻訳会社さんからやってくる「金融分野の依頼」の内容を見ますと、ひとくちに「金融」といっても、人によって、会社によって、ずいぶん違いがあるものだと感じます。
例えば、一般的な社内・社外文書から財務・会計、監査、マーケティング、契約書、IR(投資家向け情報)などの企業関連、すなわち大きく「ビジネス」で括れるような内容の文書も、金融翻訳者に依頼されることが多いようです。もちろん、これらの分野と、以下に述べるような本来の金融分野は、重なる部分が多いのも事実です。
しかし、本来の意味での「金融」とは、その字の通り「お金の融通」、つまり個人・企業・政府の3つの経済主体が資金の貸し借りをする世界、さらにはその仕組みを利用して、資産の維持・拡大を目指す人たちの世界です。すなわち狭義の「金融翻訳」とは、基本的にその世界で発生する文書の翻訳であると考え、本講座では、それらの文章について見ていきたいと思います。
他の分野とのはっきりとした線引きは到底不可能ですけれども、例えば日本経済新聞の朝刊のうち「マーケット総合」欄や、Yahoo!の「ファイナンス」欄に掲載されている内容について書かれた文章が、まさにホンスジの金融翻訳分野と考えていただいて結構です。
したがって、
●株式・債券・為替、デリバティブ、コモディティ(国際商品)や不動産などの代替
商品(オルタナティブ商品)の市場の動き
●これらの証券や商品の運用(投資戦略)
●これらの証券や商品の値動きに影響する経済全体の動き、すなわちマクロ経済や産
業・ 企業の動向
以上について書かれた文章が中心となります。具体的には、ファンドなどの運用報告書、市場関連の各種レポートやリサーチ、金融市場に関する報道文などです。またこれとは少し異なりますが、証券会社、資産運用会社、銀行等のホームページ、ブローシャー、プレスリリース、プレゼン資料などがあります。
その他にも、企業の合併・買収(M&A)関連、金融取引に関連する契約書や約款、官公庁への各種提出書類なども、金融翻訳者に依頼されることの多い分野です。しかしここでは、上で述べた通り、本来の意味での「金融」の内容に絞って見ていきたいと思います。
また、本講座では基本的に「英語から日本語」への翻訳を取り上げることにします。
さて、かつてはわたし自身がそうでしたのでよく分かるのですが、「金融」とか「経済」に苦手意識を持つ人は多いようです。
経済は、自給自足している人を除き、世の中のすべての人が関わりを持つ世界ですから、米国の連邦準備制度理事会(FRB)のイエレン議長さんから、角のたこ焼き屋のおじさんまで、ありとあらゆる人が、ありとあらゆることを語り、書き、話をするので、新しい言葉や表現がどんどん発生し、省略化が進み、「誰もが知っていて当然」とされる背景や知識が文章の表面から消えていきます。母国語だけでなく、外国語でも同じようにその現象が起きるのですから、ついていくのも一苦労です。
そのため、実は極めて身近な存在なのに、外国語どころか、母国語で読んでさえも理解不能なことがあります。だからこそ「嫌われ役第1位」になるのかもしれません。
しかし、これまでのわたしの経験から言って、金融工学の絡む高度な内容の文章から、比較的理解しやすい概略的・網羅的な内容の文章まで、英語そのもので悩むことはあまりないように思います。他の実務翻訳と比較して、文学からの引用表現や凝った言い回しが若干多いのは確かですが、「箸にも棒にもかからない」原文にはあまりお目にかかったことがありません。
したがって、よほど難解な内容でない限り、普通に英語力のある人なら、「原文のまま理解する」ことはそれほど難しくないように思います(もちろん、相応の背景知識は必要)。
しかし、原文理解が簡単だから簡単に訳せるかというと、皆さんもご承知の通り、そううまくは行きません。さらにもう一歩踏み込んで言えば、仮に英語の内容を正しく映し出した日本語を作成できたとしても(それももちろん大変ですけれど)、それだけではすまないのが金融翻訳です。
金融翻訳には、非常に特徴的かつ重要なポイントがひとつあります。それは「不特定多数の人が読む文章」を訳すことが多い、ということです。その点、特定の分野、特定の人々を対象とした文章を扱うことが多い他の実務翻訳とは大きく異なり、むしろ、一般の人々が目にする文芸、映像・メディア、各種エンターテイメントなどと通じる部分があるかもしれません。
金融翻訳の依頼元の多くは証券会社、運用会社、銀行などで、翻訳対象は、それらの企業の顧客、すなわち一般投資家や機関投資家向けの文書が多くを占めます。
「機関投資家」とは、保険会社、企業年金、投資信託会社など、主に個人から預かった資金をまとめて運用する法人の投資家のことです。したがって、それなりの知識をお持ちの方々ですので、翻訳者が内容を理解しないままに変な訳を出せば、「この翻訳者、素人だな」とすぐにばれてしまいます。
「一般投資家」は、何億もの資産をお持ちで、利息だけで暮らせる優雅なマダムから、なけなしの貯金をはたいて一単元(最低口数)のさらに10分の1程度のミニ株を購入するような一市民(わたし?)、さらに最近では、投資でお小遣いを稼いでいる小中学生もいるという話ですから、そういった子どもたちまで、個人でお金を投資しているすべての人々を指します。したがって、プロはだしの個人投資家から、株式と債券の違いもいまひとつお分かりでない方々まで、まさに千差万別。
それらの人たちが全員読む可能性があるとなれば、英語を正しく映すだけでなく、日本語として分かりやすい文章を書くことの重要性はお分かりいただけるでしょう。さらに言えば、あまりくだけていてはダメで、ある程度の格調を備えた質の高い文章が求められます。
もうひとつ、金融翻訳に特徴的なポイントとして「短納期」があります。市場は時々刻々変化していますから、最新の内容をできるだけ早く投資家に知らせる必要があるわけです。
実際、ニューヨークか香港か南アフリカか、世界のどこかの会社で、アナリストだかストラテジストだかが書きなぐった日次・週次・月次・四半期・半期・年次から臨時のものまで、様々なレポートが届くのをPCの前で待ち、原稿がメールで届いたらすぐに翻訳に着手し、速やかに仕上げて納品する、というのが金融翻訳者の日常です。
(しかし実際には、かなりの確率で入稿が遅れます。お願いだから予定通り仕上げてね、と声を大にして言いたいところです。入稿がどれだけ遅れようと、納期を同じだけ延期してもらえることはほとんどなく、多くの場合、「いつもより時間がないけど、いつもと同じ品質に仕上げてね」と、しれっと言われるからです。それができるなら、最初からやっています。ハイ。閑話休題)
さて、仕上がった翻訳文は、翻訳会社によるチェック後、すぐに納品されるわけですが、依頼元の証券会社や運用会社は、それをただちに報告書の形に仕上げるなどして、社内のコンプライアンスプロセスや、アナリストによる査読があるならそれを通し、速やかに投資家の皆さんの元へ届けねばなりません。インターネットの普及とともに、そのサイクルがさらに速くなっていることは、容易に想像がつくのではないかと思います。
となれば、依頼元の求めるものはひとつ。「高い商品性を有し、手を入れることなく、そのまま外部に出せる文章」です。
証券会社や運用会社から見れば、各種の報告書や資料の配付は、非常に重要な顧客サービスの一部ですから(法律で交付が義務づけられている文書もあります)、おかしなものを出すことは絶対にできません。逆に顧客から見れば、なにしろお金が直接的に絡む話であり、自分の大事なお金がどうなっているか、今後どうなるかを知るために重要なものですから、質の悪いものが送られて来たり、届くまでに時間がかかったりすれば、その会社への印象を悪くします。
このような次第で、要するに「商品性が高く、ある程度の格調を備え、手を入れることなくそのまま外部に出せる文章を作成する」、これが金融翻訳者の使命となります。
従いましてこの講座では、「日本語の練り上げ」を中心に見ていくことにします。もちろん、金融翻訳で頻出する専門用語についても、わたしの能力の許す限り、取り上げるつもりです。また翻訳そのものだけでなく、金融翻訳の仕事の流れや、他の分野にはない課題などについてもお話できればと考えています。
例えば治験、法律、契約書、特許などの分野と異なり、金融翻訳というのは「型」や「流れ」というものがあまりありませんので、この講座もぶっつけ本番感満載の内容になってしまうかもしれませんが、1回の講座から何かひとつだけでも得ていただければと思います。
それでは本編をお楽しみに!