INTERPRETATION

何故私たちではなくてあなたが?

柴原早苗

通訳者のたまごたちへ

 私が通訳業を始めたのは今からおよそ15年ほど前です。最初は成田空港のお出迎えや国際会議の受付業務から始まり、その後アテンド通訳、ビジネス通訳、会議通訳と少しずつ仕事の幅を広げてきました。そして縁あってロンドンのBBCワールドで放送通訳業に携わるようになり、帰国後の今も放送通訳をメインに稼働しています。

 空港で今か今かとゲストをお出迎えするときのドキドキ感、「お名刺を頂戴いたします」と言って正確にお名前を確認するときの受付での緊張感など、今では懐かしい思い出です。さらに、いくら準備しても不安だった初めてのビジネス通訳現場では胃がキリキリと痛み出したこと、直前に電話帳数冊分の資料を手渡され、同僚と助け合って読み込んだセミナー同時通訳などもありました。どの仕事にもそれぞれ学ぶことがたくさんあり、そうした業務を依頼してくださった方々には感謝しています。

 今ではもっぱらCNNやCBSイブニングニュースなど、報道の通訳が多くなっていますが、なぜ放送通訳にここまで魅了されているのか、最近改めて考えるようになりました。ニュースという、まるで連続ドラマのような継続性に惹かれているのももちろんですし、一カ国で起きた出来事が世界に徐々に波及していくのを目の当たりにし、それを身近なものととらえられるようになったこともあげられます。たとえばリーマン・ショックやサブプライムローン問題、原油価格高騰などは日本の本土で起きたことではありませんが、巡り巡って私たちの生活にも大きな影響を及ぼしました。他国で発生したことを、対岸の火事ととらえるのではなく、「自分の問題」として考える大切さを私は放送通訳から感じています。

 けれどもそれ以上に大きな要因があります。それは、なぜ色々な出来事や事件が「私の近辺」ではなく、別の場所で起きたか、という点です。たとえば今年秋にはフィリピンで台風による大洪水が発生し、多くの犠牲者が出ました。なぜ「私」ではなく、フィリピンの人々が被害にあわなければならなかったのか。あるいはアフリカのダルフールでは大量虐殺が起きていますが、なぜ「私」

ではなくて彼らがそのようなむごい状況下にいるのか、などです。

 戦後、精神科医としてハンセン病患者の治療にあたった神谷美恵子氏は、「癩者に」と題する詩を残しています。

 「何故私たちではなくてあなたが?

  あなたは代って下さったのだ、

  代って人としてあらゆるものを奪われ、

  地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。」

 イラクやアフガニスタンの人々は、銃声や爆音が続く生活を送っています。一方、自分の意見を公の場で訴えたくても、政府の規制で自由に発言できない人も世界にはいます。女性だからという理由で教育を受けられない人もいれば、衛生状態が悪くて幼子が自分の目の前で命を落としていく、そんな状況に直面している人たちがいるのです。

今こうして暖かい部屋でこのコラムを書いていると、「たまたま」「今の日本」に生きる自分がいかに恵まれているかを改めて感じます。その自分が社会に対してできることは何なのか。ことばに携わる一人間として、これからも考え続けたいと思っています。

 (2009年12月7日)

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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