INTERPRETATION

今年の通訳業界から感じたこと

柴原早苗

通訳者のたまごたちへ

 今年も残すところあと数日となりました。ついこの間新年を迎えたと思ったら、もうお正月の準備でバタバタしています。瞬く間に過ぎた一年を振り返りつつ、今年も健やかに過ごせたことに感謝あるのみです。

 今年は通訳業界に身を置く私自身、いろいろと考えたことがありました。それはクライアントと通訳者の業務に対する認識についてです。具体的に言うと、クライアントが何を求めているのか、そしていまの通訳者はどのようなことを提供しているのかを考えてみたのでした。

 その結果、おおむね以下のような状況にあるのではないかと感じています。

 まずクライアントおよび業務の傾向として、(1)直前依頼が多い、(2)資料が直前まで出ない、(3)一名体制での依頼が多い、この3点です。具体的に過去と比較すると以下のようになります。

(1)かつては数週間前に依頼を受けたものだが、前日あるいは当日のエージェントからの電話が増えている。

(2)以前はかなり事前に読み原稿や参考資料などがそろい、通訳者に渡されたが、今は以前ほど早くは出ない。

(3)数時間に及ぶ業務であれば、2名以上で臨むのが恒例だったが、最近は半日でも一名体制、場合によっては全日を一人でという依頼も少なくない。

 では、なぜこのようになったのでしょうか?私なりに分析してみました。

(1)以前は通訳者を必要とする部署が直接エージェントに依頼できた。しかし、最近は総務部などを通じて依頼する企業が増えている。予算や決済でゴーサインが出なければ依頼できないケースもあり、その過程に時間が費やされる。

(2)企業コンプライアンスや守秘義務などを重視する企業が増えており、安易に資料を外部に出せなくなっている。また、スピーカーも直前まで読み原稿やパワーポイントの資料を練っている。このため、最終原稿になるまでなかなか公表されない。

(3)世界的な景気低迷のあおりを受け、企業側の予算が厳しくなっている。高額の通訳者を複数雇うのは難しいと考える企業が増えている。

 一方、サービス提供者である通訳者は、「最高レベルの通訳を行うこと」を至上命題として稼働しています。つまり、(1)依頼から当日まで時間的余裕があること、(2)その間に最大限の準備を行うので、資料もすべてそろえてほしいこと、(3)疲労を伴う業務であるため、疲れによる質の低下を防ぐべく、数名体制で業務を行うこと、この3つを重視しているのです。

 しかし、こうして両者の3点を比べてみると、実に相反していることは明らかです。つまり、時代が変わりつつある今、私たち通訳者も時代の変化に適応し、その中で最大限の質を提供すべく努力をしなければいけなくなっているのです。

 この課題に対する答えは、100人通訳者がいれば100通り出てくることでしょう。あるいは、完全解答というものは、そもそもないのかもしれません。ただ、これまでを見ていると、依頼形態が変わっているにもかかわらず、何とか最高品質のものを提供しようと通訳者側が心身ともにかなり無理をしているようにも思います。通訳者は努力家であることが多く、その個々人の通訳者の頑張りがあったからこそ、ここまで維持できたとも言えます。

 ただ、これから景気がますますひっ迫する中、通訳者「だけ」の精神的・肉体的努力に頼ることには限界があります。いずれは「直前依頼・資料なし・一名体制」が業界の基準になってしまうかもしれません。私たちとしてはそれをできる限り防ぐための啓蒙活動は続けるべきでしょう。しかし、もし時代の変化がそれを許さないのであれば、通訳者側も自分たちのできること・できないことを明確にしなければならないと思います。具体的には「今日依頼されて、しかも資料がなく、一名体制ということはわかりました。それなりに最大限努力いたしますが、事前準備をいただいた上で臨むのとは質の面で差が出るかもしれません。どうかそこをご承知おきくださいますよう、お願いいたします」と一言お断りを述べる必要が出てくるかもしれないのです。

 これからの日本は裁判員制度の導入や、法科大学院の設立による弁護士数の増加などが控えています。そうした中、誤訳により通訳者が訴えられるというケースが皆無とは言えなくなるのです。通訳者の責任はどこまで問われるのか。今後は通訳業界全体が、自衛策を含めた啓蒙活動をしていく必要があると私は考えています。

(2008年12月29日)

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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