印象に残ったことば
仕事柄、本を読んだり新聞に目を通したりというのは、私の日常生活の一部になっています。なかば活字中毒と言われてもおかしくないぐらい、私の人生において「文字を読むこと」は大きなウェイトを占めているのです。自宅に市の広報誌が届けば目を皿にして読みます。一方、出先で無料のミニコミ誌を見つければ、手に取らずにはいられません。こうした媒体の中から面白い情報を発見するのは私にとってうれしいことであり、それがずいぶん後になって仕事で生かされたときなど、「あのとき読んでおいてよかった」とホッとするときもあります。通訳勉強というのは単に机に向かって英語と格闘するものではありません。むしろこうした「雑学の引き出し」を増やすことも立派な学習であり、トレーニングであると私は思っています。
いろいろなものを読み進めていると、印象的な言葉が出てきたり、興味深い内容に遭遇したりします。そのような時は日記に書きうつすほか、家族に話すことで共有するようにしています。心に残ったことを再度「書く」あるいは「話す」ということは、知識の定着に必要なのかもしれません。私の場合、そうすることでより記憶に残りやすくなるようです。
最近も心に響く文章に出会いました。日経新聞夕刊で連載中の松永美穂氏の文章です。松永氏はドイツ文学者で、ベルンハルト・シュリンク著「朗読者」を翻訳なさっています。2000年に新潮社で出版され、大ベストセラーになったので、覚えている方もいるでしょう。
12月3日木曜日の「校閲者は偉大である」と題するエッセイで、松永氏は次のように述べています。
「翻訳というのは、著者の言葉の世界をいったん引き受け、自分の言葉にしてアウトプットすることでもあるが、著者の教養に自分の教養がまるで追いつかず悲しい思いをすることもしばしばだ。」
この文章は、通訳の世界でもまさに当てはまります。話し手の言葉を日本語に訳す場合、本人が何を言いたいのかを通訳者はまず把握しなければなりません。それは単に字面を追うこととは違います。本来であれば、話し手の世界に入り込み、通訳者も本人になりきらなければいけないのです。
確かに通訳の場合、通訳者が内容を耳にしてから目標言語に変換するまでの時間は非常に限られています。ですので、そうした中で話し手の世界にまで入り込むことは難しいかもしれません。どんなに事前準備をして現場に臨んでも、限界があることは私自身、日々体験しています。このような理由から、話し手本人の内面まで入り込めない分、通訳者は「自分が耳から聞いた言葉」をどれだけ最大限訳せたかということが自己評価になりがちです。
けれども私は「聞いた言葉をすべて訳せた。だから完璧な訳ができた」と思いません。なぜでしょうか?それは言葉ひとつひとつだけを電子辞書の訳語検索のようにピンポイントで訳しても、鳥瞰図的な内容の把握には至らないからです。元の発言には話し手の人生経験すべてが込められています。その結果発せられた言葉を安易に「拾えた、拾えなかった」と通訳者が○×で評価することではないと私は思うからです。
仕事の依頼を受けてから通訳本番までの準備時間で、その方についてよりたくさん知ることができれば、通訳作業も必ずやりやすくなります。また、それはイヤホンから通訳を聞いている聴衆にもすぐわかります。私は通訳者デビュー前、たくさんのシンポジウムに出かけ、同時通訳に耳を傾けました。プロはどのような通訳をするのか、現場を知りたかったからです。ある著名な実業家の講演に出かけた時のこと。イヤホンから入ってくる同時通訳の声は、まるでこの実業家本人かと思われるぐらい、息がぴったりあっていました。複雑な内容も実に分かりやすく、耳に心地よい声で通訳されていたのです。私はその実業家の著書を読んでいたのですが、細かい話の部分もこのときの通訳者はとてもわかりやすく訳していました。その時私は「この通訳者は著書をじっくり読み、頭の中に叩き込んでから本番に臨んでいる」と確信しました。
このときの同時通訳は今の私にとって、ロールモデルとなっています。できる限りの予習をすること、スピーカー本人になりきること、聴衆にわかりやすいデリバリーを行うこと。どれも通訳業務に欠かせない、大切な心構えだと思っています。
(2008年12月15日)
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