INTERPRETATION

いさぎよき撤退

柴原早苗

通訳者のたまごたちへ

 通訳業に引退はあるのでしょうか?

 私はフリーランスに転身して以来、ずっとこのことを考えています。もちろん自営業ですから、自分から辞めるといわない限り、定年も引退もありません。通訳力を常に磨き、生涯現役でいることも可能です。資格試験も認定制度もない通訳という仕事は、そういう意味でも一生続けられる稀有な職業です。

 一方で、スタート年齢も特に定められていません。若くして始めることもできますし、子育てなどが一段落してから猛勉強をして、デビューすることも可能です。現に通訳学校の私の教え子の中には、40代や50代で自らエージェントにアプローチして、仕事を獲得した方もいます。

 私は、通訳業務のライフサイクルを以下のように考えています。仮に20代後半でデビューしたとして、40代までに絞って見てみましょう。

 まず20代後半。デビュー直後はとにかく「学びの時期」に尽きます。最初のうちはおそらくアテンド通訳や、簡単なビジネス通訳などに終始するでしょう。「早く国際会議の同時通訳がやりたい!」と思って気は急くものの、なかなかそのような業務は回ってこないかもしれません。しかし、ここで焦りは禁物。エージェント側も、その通訳者が難易度の低い業務をどれだけ丁寧にこなしているか、この時期に徹底的にチェックしているのです。向上心はあるか、現場での対応はどうか、クライアントのフィードバックは好意的か、などなどです。そのようにして易しい仕事から少しずつ難しい仕事が与えられていきます。

 30代前半になると、依頼される業務内容も多岐にわたってきます。本人もコンスタントに通訳の仕事を続けているので、どのような分野もまんべんなくこなしてきています。多様な分野の内容において、最新情報に対応できる力もついてきているのです。急な案件でも引き受けられるようになり、クライアントからのご指名も増えてくるでしょう。「勉強→通訳現場→反省」という生活サイクルも安定してくる頃であり、勉強が楽しい、仕事に出かけるのが幸せ、という時期です。

 デビューから10年ほどたって30代後半になると、少しずつ自分の今後について考えるようになります。はたして今のようにオールラウンドで色々な分野を受け持つ方が良いのか、それとも「自分の専門分野」を絞るべきか悩み始める時期です。周りの通訳者の中にも、得意分野を確立する人が出始めます。「今まで色々な内容を請け負ってきたけれど、自分は通訳者として何をしていきたいのか」と思う頃です。一度じっくり学び直すために大学院に進もうと考え、資料を取り寄せるかもしれません。あるいは様々なセミナーに参加し始めるケースもあるでしょう。この時期というのは、通訳業務と自分の専門分野の勉強を並行して行う人も出てくれば、「今のまま、オールラウンダーでやっていこう」と決める人もいます。いずれにせよ、30代後半は最初の分岐点とも言えるのです。結婚や出産など、プライベート面で大きな変化に直面することもあります。

 こうして仕事や家庭において一つのヤマを越えたころ、40代がやってきます。40代というのは、今まで自分があまり考えてこなかった変化に直面します。「心身の変化」です。体力面では、今までのような踏ん張りが利かなくなったり、白髪が出てきてドキッとしたり、という変化です。30代まではひたすらガンガン仕事を受けてきたものの、「急な依頼案件は体力が持たないなあ」と躊躇し始めるかもしれません。また、自分は通訳者としてやっていくのか、それとも少しずつ、後進の指導に携わるのか、考える時期でもあります。

 通訳者というのは、たったひとつのことだけに特化して仕事をしていくのではありません。お仕事を頂く限り、色々な分野に携わることになります。しかし、「広く浅く」で続けていきたいのか、自分が得意とする分野を「狭く深く」やっていくのか、いずれは真剣に考えなければいけないでしょう。その時に必要となるのが「いさぎよい撤退」です。自分が本当にやりたいことを重視し、それを伸ばしていくことが大事なのであって、心を惹かれない部分に関しては勇気を持って、いさぎよく撤退することも大切なのです。

 誰にとっても人生は一回きりです。せっかく定年も引退もないフリーランスで仕事をしているからこそ、いさぎよき撤退は敗北ではなく、次へのステップだと私は思っています。

(2008年6月9日)

Written by

記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

END