INTERPRETATION

黒子の本音

柴原早苗

通訳者のたまごたちへ

 「通訳者は黒子」とよく言われます。通訳者の使命は、話者の発言を忠実に訳し、それを聞き手に漏れなく伝え、両者間で意思疎通を図ることです。通訳者本人が表に出すぎてはいけないからこそ、黒子といわれるゆえんです。

 しかし黒子的存在だからと言って、黒子への協力がなければ異文化間コミュニケーションは順調にいきません。通訳者は影のような存在かもしれませんが、現場、つまり本番にいたるまでは黒子への事前準備が不可欠なのです。

 ここで本来の黒子、つまり歌舞伎舞台における黒子に注目してみましょう。歌舞伎役者は舞台上で一方的に黒子の助けを得ているわけではありません。お客様の前に出るまでは、黒子とともに練習を積み重ねます。立ち位置を決めたり、双方の動作を打ち合わせしたりといった作業を行ってきているのです。最高の演技をお客様にお見せするためにも、厳しい練習を共に繰り返すことで、役者と黒子は本番で呼吸をぴったりと合わせることができます。

 一方、通訳者についてはどうでしょうか?最近の通訳者をめぐる環境は以前と比べて大きく変わってきています。私がデビューしたころは、事前に参考資料をいただくことが多かったものの、最近は企業側の情報管理がコンプライアンスなどの観点から厳しくなり、入手が難しくなってきました。「事前の資料はありません」と言われておきながら、当日現場で大量の資料と「ご対面」というケースが増えてきたのです。

 歌舞伎の例で言うならば、これはまるで歌舞伎役者と黒子が当日舞台で初顔合わせすることに等しいでしょう。そのようになってしまった場合、お互いの動きを読み取ったり、呼吸を合わせたりすることは非常に難しくなります。もちろんプロですから何とかつじつまは合わせられるでしょう。しかし最高のパフォーマンスを披露するには大変な努力を必要とします。

 つまり通訳の場合も、資料の事前提供や担当者との細かい打ち合わせがあればあるほど、当日の通訳アウトプットもスムーズにいくということになります。また、いくら黒子とは言え通訳者も人間ですから、通訳者への配慮があればあるほど、より良いパフォーマンスを示そうという気持ちになります。

 今から数年前、某国大使の通訳をする機会がありました。その方は来日して間もなかったのですが、日本のビジネス慣習を大切にしようという姿勢をお持ちでした。片言の日本語でもきちんとあいさつなさったり、相手の企業について事前に調べておいたりしていらしたのです。このときは立食パーティーでの通訳でしたが、食事抜きで通訳を続ける私に対して、「食事は大丈夫ですか?水をとってきましょうか?」と素晴らしいぐらいの気配りでした。さらに、会場のフロアスタッフにもねぎらいの言葉をかけていらっしゃったのです。私にとっては数時間におよぶハードな業務でしたが、大使のお人柄にすっかり魅了され、限界を超えてでも頑張ろうと思ったのはもちろんのこと、大使の出身国のファンになったのです。

 通訳業を続けているといろいろな方にお目にかかりますが、概して社会的に重要なポストに上り詰めた人ほど、謙虚です。つまり、「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」というわけです。黒子としてそのような方のお手伝いをさせていただくのは実に光栄なことであり、これが通訳業の大いなる魅力でもあると思っています。

(2008年4月14日)

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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