INTERPRETATION

クレームが来た!さあどうする?

柴原早苗

通訳者のたまごたちへ

 通訳翻訳業をやっていると、誰もが一度は通る道。それが「クレーム」です。もちろん、どの通訳翻訳者も語学のプロとして最大限の努力を払い、常に完璧なアウトプットをめざして日々、精進しています。しかし、「ことば」という、ややもすると感性が左右する職業柄、「語学のプロの感覚」と「クライアントの感性」がいつも合致するとは必ずしもいきません。つまり、クライアントの感覚に合わなかった場合、クレームが生じることも大いにあるわけです。

 現に私自身がまさにそれを体験したことがあります。かなり納期の逼迫した翻訳案件を依頼されたときでした。その分野はこれまでも業務として携わったことがあったため、おそらく先方は私に問い合わせてきてくださったのだと思います。しかし、私自身、その分野に毎日携わっているわけではないため、「経験はある」とはいえ、「通訳者としての範疇内での」経験者という状況だったのです。すなわち、その道何十年というベテランではなく、平たく言えば「にわか経験者」ということになります。

 依頼時の業界は繁忙期のさなか。問い合わせをしてきた仲介の方も「できるだけ早く」とのご要望で、かなり急ぎの業務であることが電話口からわかりました。私は他に抱えている仕事を見直し、その案件を自分の持ち時間の中にどう組込められるかを考えました。調べ物や翻訳の推敲などに時間を当てられるとわかったため、お引き受けすることを決めたのです。

 そのあとは仕事の時間割を組み直して、ひたすら翻訳です。私にとってはなじみのある専門用語ではありましたが、業界最先端の話題も盛り込まれており、ひたすらネットや専門書と格闘する作業となりました。推敲を何度も重ね、読みやすい原稿をめざして手直しを経て、締め切り前に無事提出しました。

 ところが、それからしばらくして、お客様から真っ赤になった原稿が返ってきたのです。これにはかなり衝撃を受けました。もちろん、今後の自分の課題を知る上では、こうしたフィードバックは欠かすことのできないものだと思います。しかし、ここ数年、このような形での反応がほとんどなかったため、驚いたというのが正直なところでした。

 私個人としては原文に忠実に訳し、専門文書であることからあえて意訳は避けました。しかし、戻ってきたものはかなり意訳という形で手直しされていたのです。意訳というのは元の概念をしっかり把握していればできると思いますが、その分野の専門家でなければかなりリスクが伴うと思います。そういう意味でも、戻ってきた原稿は非常に参考になりました。

 今回は直接「苦情」というクレームではありませんでしたが、行間から「もっとしっかりやってほしい」というメッセージに私は受け止められました。それは私への非難ではなく、叱咤激励だと思って

 たとえプロになっても、お客様のコメントは真摯に受け止め、次への課題としてつなげていくこと。これからの時代はこのような心構えがますます大切になると感じた出来事

(2008年4月7日)

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記事を書いた人

柴原早苗

放送通訳者。獨協大学およびアイ・エス・エス・インスティテュート講師。
上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。英国BBCワールド勤務を経て現在は国際会議同時通訳およびCNNや民放各局で放送通訳業に従事。2020年米大統領選では大統領・副大統領討論会、バイデン/ハリス氏勝利宣言の同時通訳を務めた。NHK「ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説担当を経て、現在は法人研修や各種コラムも執筆中。

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