INTERPRETATION

アメリカ社会とスポーツ

木内 裕也

Written from the mitten

 これまでに何度かアメリカ社会とスポーツについて書く機会がありました。ちょうど今は、ミシガン州デトロイトを本拠地とするアイスホッケーのプロチームが健闘しているため、多くの人がチームの成績に非常に注目しています。これはミシガン州立大学のバスケットボールチームが全国大会を勝ち抜いたときもそうでしたし、私がボストンに住んでいるときにレッドソックスについて感じたこともそうでしたが、アメリカ国民がスポーツチームを応援するのは、アメリカという国がある意味でそれ以外に共通項を持たない人々の集まりであるからの様に感じます。

 アメリカとは、人種の坩堝であり、様々な文化的背景を持った人々が集まる国家であることに疑問の余地はありません。しかし様々な人々が仲良く暮らしている、という楽観的な見方は、必ずしも正しくありません。人種を考えてみれば、今でも人種間の軋轢は耐えません。最高裁判所の裁判官に関する指名の例を考えても、「ラテン系で1人目の裁判官が生まれるかも」という期待感がある中、「最高裁判所の裁判官を決めるにあたって、人種がどれだけの重要性を持つべきなのか」という疑問を多くのアメリカ人は持っています。他にも出身国、経済力、学歴など、アメリカ社会は一般に想像されている以上に「違い」を強調する国です。また「多様性」を重要視しているのは確かですが、それが必ずしも平和的な関係を生み出すのではなく、軋轢を生み出していることも忘れることはできません。

 このような環境の中で、スポーツは人と人がつながることのできる数少ない機会でもあります。出身国や出身校という1つの共通項さえあれば、自分のチームを応援することができます。試合会場のVIPルームで観戦するか、それとも近所のバーで観戦するか、それとも仲間と集まって誰かの家で観戦するか、という違いはあるかもしれませんが、Fever Pitchという映画で主人公の1人が語ったように、スポーツチームを応援することは、「何か大きな存在の一部分になる」ことができるのでしょう。

 ここで重要なのは、Sense of Belonging(帰属意識)です。アメリカのように個人主義が強く、何かあっても”Who cares?”といって、自分の意見を押し通す国では、個人が脆い存在になりがちです。スポーツチームを応援し、大騒ぎするのは、その脆さを隠し、またその脆さに何とかして対抗しようという意識の現われなのかもしれません。

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記事を書いた人

木内 裕也

フリーランス会議・放送通訳者。長野オリンピックでの語学ボランティア経験をきっかけに通訳者を目指す。大学2年次に同時通訳デビュー、卒業後はフリーランス会議・放送通訳者として活躍。上智大学にて通訳講座の教鞭を執った後、ミシガン州立大学(MSU)にて研究の傍らMSU学部レベルの授業を担当、2009年5月に博士号を取得。翻訳書籍に、「24時間全部幸福にしよう」、「今日を始める160の名言」、「組織を救うモティベイター・マネジメント」、「マイ・ドリーム- バラク・オバマ自伝」がある。アメリカサッカープロリーグ審判員、救急救命士資格保持。

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