INTERPRETATION

「言葉の持つ意味」

木内 裕也

Written from the mitten

 先日、友人が審判をしているサッカーの試合を見ていて、ふと感じることがありました。サッカーの試合中に選手や監督が審判に話しかける際には、”sir”という言葉を使います。これは男性の話し相手に敬意を持って話しかけるときに使う言葉です。例えば「ちょっとすみません」と言う時に”Excuse me”とだけ言うのではなく、”Excuse me, sir.”と言えば、それだけ丁寧な表現になります。私が観戦していた試合でも選手は例えば選手交代の際に”Sub, sir!”と言っていましたが、私の気をひいたのは、審判をしていた友人が女性だった点です。

 上記の通り、Sirという言葉は男性に使うものであり、女性に対してはMa’amという言葉を使います。審判をしていたのは女性ですから、本来ならば、”Sub, Ma’am!”と言ってレフェリーの気をひくのが正しいです。選手の立場から考えれば、レフェリーの大多数は男性です。日本よりも女性審判員が多いアメリカとはいえ、それでも社会人リーグで活動する女性審判員は例えばミシガン州では10人程度。何となく、いつもと同じように、何も考えずに、自然とSirという言葉を使っていたのでしょう。

 こう考えていて私が関心を持ったのは、本来は敬意を示すために使われる”sir”という言葉が、もはや(少なくてもサッカー場においては)敬意を示すために使われているのではなく、「ただそう言うのが普通だから」という理由で使われているということです。つまり、選手が審判員を尊重してSirという言葉を使っているのではなく、毎週のようにSirという言葉を使っているので、そういうのが当たり前になっているのです。「敬意を示す言葉が自然に口をついて出てくる」と考えれば非常に素晴らしいですが、これは「本当は敬意を示そうとは思っていないけれど、Sirという言葉を言うのが当たり前なので、口に出している」と考えることもできます。だからこそ、女性の審判員に対しても、何も考えずにSirという言葉を用いるのではないでしょうか?

 サッカーの試合という環境の中で考えると、特別な意味を持つ言葉を反復して口にすることで、その意味が失われたと考えられるでしょう。これは良く考えれば当たり前のことです。人間が使用する言語とは、その言葉(書かれたものであり、発声されたものであり同じです)とその対象物には絶対的な関係はありません。今、この原稿を書いているのは友人の家の近くのコーヒー屋ですが、「コーヒー」という言葉と、その言葉が指し示す「コーヒー」には恣意的な関係しかありません。そのために様々な言語が存在し、個人の経験によってある言葉が特別な意味を持ったりするわけです。

 これは言語や意味論などを少し学ぶと明らかになることですが、このサッカー場での経験は「特別な言葉を何度も使うと、その特別さが失われる」という現象を目の当たりにする非常にいい機会でした。英語にはF-wordと呼ばれる避けるべき言葉がありますが、「どれくらいの頻度でF-wordを使うと、その単語の卑猥さが失われるのか?」という疑問を呈した学者がいました。例えばカナダにおいては、この単語がアメリカよりもタブー視されていないと聞きます。実際、カナダのサッカーチームを審判すると選手が良くこの言葉を口にし、アメリカの試合会場責任者が冷や汗をかいています(観客席には子供もいるので)。カナダにおいては卑猥さが低いために、口に出されることが多いのか、それとも口に出されることが多いから卑猥さが失われたのかは分かりませんが、ある物や事象を説明する表現や単語とはランダムに人間が作り上げたラベルでしかなく、その意味はその時の社会が作り上げ、無意識に合意して使っていることは明らかでしょう。

Written by

記事を書いた人

木内 裕也

フリーランス会議・放送通訳者。長野オリンピックでの語学ボランティア経験をきっかけに通訳者を目指す。大学2年次に同時通訳デビュー、卒業後はフリーランス会議・放送通訳者として活躍。上智大学にて通訳講座の教鞭を執った後、ミシガン州立大学(MSU)にて研究の傍らMSU学部レベルの授業を担当、2009年5月に博士号を取得。翻訳書籍に、「24時間全部幸福にしよう」、「今日を始める160の名言」、「組織を救うモティベイター・マネジメント」、「マイ・ドリーム- バラク・オバマ自伝」がある。アメリカサッカープロリーグ審判員、救急救命士資格保持。

END