INTERPRETATION

「アメリカの社会問題に見る

木内 裕也

Written from the mitten

 アメリカの大統領選挙が近付いています。この時期になるといつもより一層話題に上るのが、「公立学校で何を教えるか」という問題です。宗教が日常生活と密接に関わっているアメリカでは、公立学校で進化論を教えることが信仰の自由に反するのではないか、また創造説も教えるべきではないか、という議論が頻繁になされています。とても複雑な問題ですから、そう簡単に解決策がでるわけでも、合意点が見出されるわけでもないのですが、この問題を見つめることで、議論をする際に「前提条件をそろえる」ということがどれだけ重要であるかがわかります。これは私がアメリカの大学で授業を教えるときにも学生に話をしますし、通訳者として仕事をしていると、前提条件がずれているから交渉が平行線を辿ったまま、ということが頻繁にあります。

 進化論を学校で教えるなら、創造説も教えるべきである、という主張には、「進化論もいまだ確実な科学的解明がなされていない説の1つであり、創造説と何の違いもない」という考えがあります。これはある意味で正しい主張です。科学という観点から考えれば、どちらの説がより信憑性が高いかに疑いはありませんが、100%の証明がなされていないという点は両者に共通です。また「創造説は学校で教えるのに適切ではない」という主張する人にとっては、創造説は宗教的な考えであり、非科学的であるというのが主たる考え方です。

 ここで考えるべき「前提条件」とは、公立学校で教える内容として、何が適切であるか、という問題です。より大きく捉えれば、学術機関において適切なカリキュラムとは何か、という問題です。もしも学術機関では科学的に信憑性の高い内容のみを教えるべきであれば、進化論がカリキュラムに含まれ、創造説はカリキュラムから外されても仕方ないでしょう。しかし科学的に証明できる内容のみを教えるのなら、両者ともカリキュラムから外れます。また、科学的には証明されていない内容も扱うのであれば、両者ともカリキュラムに含まれるのが論理的です。

 現在の学術機関は科学的に証明のできる内容や、信憑性の高いものを正しいとするのが一般的です。これは「科学こそが真実を明らかにする手段である」という考えに根ざしています。また学術機関が「正しい知識を教える場所」としての地位を独占しているのも特徴です。この観点から考えると、現在の社会では科学的に証明できるか、信憑性の高い内容が唯一の事実として一般に広められることになります。

 この様に考えると、進化論と創造説の間で継続的に起きている議論は、その前提条件としてある学術機関の役割、科学こそが事実を見出す手がかりであるという考えなどの正当性を議論しないことには解説されないことがわかります。

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木内 裕也

フリーランス会議・放送通訳者。長野オリンピックでの語学ボランティア経験をきっかけに通訳者を目指す。大学2年次に同時通訳デビュー、卒業後はフリーランス会議・放送通訳者として活躍。上智大学にて通訳講座の教鞭を執った後、ミシガン州立大学(MSU)にて研究の傍らMSU学部レベルの授業を担当、2009年5月に博士号を取得。翻訳書籍に、「24時間全部幸福にしよう」、「今日を始める160の名言」、「組織を救うモティベイター・マネジメント」、「マイ・ドリーム- バラク・オバマ自伝」がある。アメリカサッカープロリーグ審判員、救急救命士資格保持。

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