INTERPRETATION

「恐怖の文化」

木内 裕也

Written from the mitten

 またもアメリカの大学構内で銃の乱射事件が発生してしまいました。昨年の4月にもヴァージニア工科大学で似た事件が発生し、このブログでもアメリカの銃社会について投稿しました。その時はアメリカでなぜ銃がこれほど広まっているのか、またアメリカの社会や歴史にとって銃がどの様な意味を持つのが考えました。アメリカとカナダを行き来すると、カナダの税関職員は「銃器を持ち込んではいませんね」と確認するのに、アメリカの職員は「果物、生ものは無いですね」と確認します。ある意味、銃の存在は当たり前であるともいえます。しかし今週は少し視点を換えてみたいと思います。というのも、一連の報道を見ていると、アメリカ社会が「恐怖心」に根ざした文化であるということがわかってきます。今回は、私の専門分野であるアメリカ研究の手法を使いながら、アメリカ文化や社会を考えたいと思います。

“Culture of Fear”(恐怖の文化)という表現が英語にあります。これはFrank Furediや日本でも有名なNoam Chomskyがよく口にする内容でもあります。Barry Glassnerの著書で、この考え方が一層広く知れ渡るようになりました。これはアメリカ社会には常に何かに対する恐怖心が存在している、ということです。「恐怖」や「脅威」の考えが、文化や社会の一部になっていて、場合によってはそれらの概念無しにアメリカは存在することができない、というものです。

 最近のアメリカ史を考えてみても、19世紀末に中国人に対して、そして20世紀になって日本人に対してYellow Perilという現象が存在しました。アジアからの移民が白人社会を崩壊させる、という恐怖です。また第2次世界大戦後はRed Scareという名前で、アメリカ国内で密かに活動している共産主義者がアメリカ的生活を脅かす、という恐怖心が存在していました。冷戦が終ると、日本の自動車産業がその標的となり、2001年以降は中東諸国を中心に、あらゆる異質の文化がその標的になっています。

 これと同じ考えを今回の大学構内で起きた銃の乱射事件に当てはめてみると、やはりアメリカ社会にとって植えつけられた恐怖心は不可欠なものではないか、と思わずにはいられません。事件が発生した日の夜は、CNNやFoxなどのニュースチャンネルが生中継を組んで、現状を報告していました。事件の起きた教室にいた学生が電話でインタビューに答え、惨状を伝えてもいました。犯人の様子や、逃げ惑う人々の様子、そして被害者が床に倒れている様子などは、非常に恐ろしい描写でした。しかし非常に興味深いのは、事件の翌々日位から流れ始めた、犯人のガールフレンドのコメントです。

 今回の事件に限らず、様々な事件の加害者は多くの場合、「普段どおりの様子だった」「そんな事をするという素振りは全く見せなかった」という風に描き出されます。アメリカ人の大半が処方薬を持ち(特に心療内科系の処方薬)、様々な理由で薬を飲むのを止めてしまうケースがあります。したがって、「薬を飲むのを止めて、思わぬ行動に出た」というのはそれほどアメリカで珍しいことではありません。そう考えると、アメリカのメディアは加害者を描写する時に、「どこにでもいそうな一般人」というイメージを作り出します。日本のワイドショーが「音声を換えてあります」というテロップと一緒に「どうも様子がおかしかった」と話す近所の住民の話を流すのとは大きな違いです。

 このようなメッセージは、惨状を報道するよりも恐怖心をあおります。「誰が銃の乱射をするかわからない」という状況は、「銃を乱射する人は見るからに怪しい」という状況よりも不安だからです。学校で悪いことをして呼び出され、職員室に向かっているときよりも、「ばれてしまうかな」とビクビクしているほうが恐怖心が大きいのと同じです。

 それではなぜ、メディアは恐怖心をあおるのでしょうか? 答えは簡単です。「恐怖心を植え付け、その解決策(もしくは気休め)を与える」という方程式がアメリカでは成り立っているからです。化粧品会社がコマーシャルで、「お肌のお手入れをしないと、肌荒れがひどくなってしまいます。」というメッセージの後に、スキンケアクリームを提示するのと同じです。不安感をあおることで、「実際に現場で何が起こったのだろう」「どんな対応を取ればいいのだろう」と視聴者は感じ、テレビに釘付けになります。平均的アメリカ人は1日に5時間から6時間のテレビを見ると言いますから、このようなテレビのメッセージは強力です。

 メディアには中立性が求められると言いながらも、視聴率やCM収入などテレビ局にとっては死活問題となる関心事があります。今回の事件を含め、深く考えれば考えるほど、やはりアメリカという国は恐怖心や脅威の概念と切っても切り離せない関係にあるのではないか、と思わずにはいられません。

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記事を書いた人

木内 裕也

フリーランス会議・放送通訳者。長野オリンピックでの語学ボランティア経験をきっかけに通訳者を目指す。大学2年次に同時通訳デビュー、卒業後はフリーランス会議・放送通訳者として活躍。上智大学にて通訳講座の教鞭を執った後、ミシガン州立大学(MSU)にて研究の傍らMSU学部レベルの授業を担当、2009年5月に博士号を取得。翻訳書籍に、「24時間全部幸福にしよう」、「今日を始める160の名言」、「組織を救うモティベイター・マネジメント」、「マイ・ドリーム- バラク・オバマ自伝」がある。アメリカサッカープロリーグ審判員、救急救命士資格保持。

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